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旅行先の一杯【短編小説】

 天井近くまで張られた巨大なガラスの窓辺には、二人がけのソファーとテーブルが均等に並んでいた。昼間は賑わっている場所も、早朝の五時五十分という時間に、人の気配は一切感じられない。
 有名な老舗旅館のロビーは、華美すぎない調度品が設置されていて、穏やかに過ごせる空間が演出されている。知る人が見ればわかるであろう豪華な品も、深みを増した木造の旅館にとてもよく馴染んでいる。
 歴史の重厚感を肌で浴びながら、私は座る面が冷えたソファーに腰を下ろした。手には携帯電話と小銭入れ、それに温くなった缶コーヒーを持っていたので、空いたソファーの隣に置いた。
 こんな人気のない朝に行動を開始したのは、旅館にある温泉を利用するためだった。朝風呂というやつだ。浴場にタオルが備え付けなので、部屋からわざわざ持参する必要はない。普段着慣れていない浴衣を崩さないよう、細心の注意を払う。
 一安心してから、私は意識が窓辺に注がれていった――正確には、窓の向こう側に映る広大な海だった。陽が昇ろうとしている時間の海は、神秘的という一言に尽きる。
 色鮮やかな朝焼けは、美術館で鑑賞する絵画にも似た印象を受ける。けれど眼前に広がるのは、絵ではなく実際の光景だ。東の空が赤く染まり、そして徐々にオレンジから黄色へと変化していく。この時間は空の色が変わり続ける、気がつけば空は青に染まってしまう。早朝に目覚めた人の特権とも言えるだろうか。
 そんな空の色を吸い込んで、海もまた色を変えていく。風がないのか、波間は穏やかに揺れていた。さざ波が水面に模様を描く様子に、私は数日前に観たテレビの内容を思い出していた。
 まさに私がこの目で見ている風景を、波の綾と呼ばれるものらしい。
 都心に住んでいたら、見る機会に恵まれることがない風景に、心が吸い込まれていく。体に内包した靄のような感情も失われて、体の中が浄化されるかのようだった。
 そんな様子を眺めながら、私は携帯電話に手を伸ばして時間を確認する。
 朝の六時、温泉が利用できる時間になった。
 この光景から背を向けるのは惜しいが、冷え始めた体を温めるのが最優先なのだ。

 ああ、さっぱりした。
 堅苦しい言葉を並び立てても、温泉という湯に浸かってしまえば言葉も砕けてしまう。
 この旅館の温泉は湯治に利用される湯は効能も高く、雑誌に掲載されるほど有名らしい。
 髪が短いおかげで、わざわざ結ぶ必要もなく、ストレスを感じずにゆったりと過ごせた。しかも誰一人として入浴していない、いわば貸し切り状態だった。
 なんとも贅沢な時間だと思う。
 温まった体の熱を味わいながら、私は座っていたソファーを目指した。変わらず人はいないけれど、窓辺から見える景色は大きく様変わりをしていた。青みがかった空は太陽が昇ったことを告げている。
 携帯電話が示している時間は六時三十分過ぎ、数十分で変化する自然の姿を何回何十回とみたはずなのに、遭遇する度に驚愕と感動を与えてくれる。
 そんな光景を眺めながら、私はソファーに体を預けて、缶コーヒーのプルタップに指をかけた。パキッという軽快な音と共に、かすかにコーヒーの香りが漂う。その香りを味わいながら、缶コーヒーを口元に近づければ、匂いがさらに強くなって、わずかに残っていた眠気を覚ましていく。
 砂糖もミルクも一切入っていないブラックコーヒーを、早朝に外を眺めながら飲む。
 これが私の旅行先の定番だった、一人で宿泊しても、複数人でも変わらない。
 静寂と自然を堪能できる至極の時間は、一人で味わうに限る。
 思い切り息を吐いてから、私は缶を傾けて口の中へと流し入れる。
「うん……」
 うまい、という言葉は声にならなかった。火照った体には、温いコーヒーも冷たく感じられた。コーヒーの苦さが体に染み渡ると同時に、私はまた息を吐いた。空気に溶けるようにコーヒーの匂いが漂っていく。もう一度飲み込んでから、今度は口を軽く閉じて鼻からゆっくりと息を吐く。すると、体中にコーヒーの香りが充満したかのような感覚を味わえる。
 温泉に浸かり、体全体でコーヒーを味わいながら、体を冷まし思考を醒ます。
 この心地よさに浸りながら、太陽が昇って空が明るくなるまで静かに過ごす。
 それから今日どこに赴くか、ようやく思考を巡らせることができた。その頃には、一緒に旅行に来た人も目覚めていることが多い。
 普段の生活で飲む朝のコーヒーとは全く違う、旅行先の贅沢の一つ。

 私はそう思いながら、旅行先の朝の幸福に浸るのだ。

(本文・1818文字)

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朝の至福の一杯を、温泉地でどうぞ的な話になります。

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勢いで申し込んで行っております、よろしくお願いします!



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