甲子園も、箱根駅伝も、オリンピックも、物事を感覚で決める愚かさと平和ボケ

夏の甲子園の中止が伝えられたのは2020年5月20日。その日の一日の全国での感染者数は38人。テレビでは「多くの高校生が涙を飲んだこと」が大々的に伝えられた。この段階で、「冬にはウィルスが活性化し感染者は増加する」といったことも伝えられていた。

箱根駅伝の開催の決定が伝えられたのは2020年11月5日。その日の一日の全国での感染者数は1049人。テレビでは「これまでの練習が報われる」といったことや原監督がどうとか大々的に報道された。

東京2020組織委員会・森喜朗会長が「オリンピックは無観客でも開催する」と発言したことが伝えられたのは、2020年12月31日。その日の一日の全国での感染者数は4322人。この発言に関しては流石に賛否両論が繰り広げられた。


ボク個人の考えとしては、新型コロナウィルスに関してそこまで悲観はしていない。もちろん専門的知識があるわけではないけれども、何かしらの事情で日本では諸外国に比べると重症率や致死率が低い。ただしこのままでは医療崩壊は免れないからそういった対応は必ず必要ではある。この点に関しては政府は対応が取れていないと感じる。

ただいま言いたいのはそういうことではない。最初に述べた3つってどう考えても「感覚的に」物事を決めた結果の判断である。「正しく恐れる」ということがもうできていない。夏の段階ではまだ未知のものであった恐怖から「過剰に」恐れてしまっていた。一方で箱根駅伝もオリンピックもある種の慣れ、いわゆる平和ボケからくる「不足に」恐れてしまっていた。現状、どちらかというと夏よりも「不足に」恐れてしまっている感が否めない。各地での初詣で殺到もそう。おそらく成人の日も何かしらの形で賑わうだろう。やらざるを得ないとはいえ対応しきれるとは考えられないセンター試験。

「専門家の意見は役に立たない。」

そんな声も聞こえてくる。専門家はあらゆる最悪のパターンもしくは最善のパターンのモデルを提示する。もちろん、それらが現実に当てはまるというものではない。ただし、物事を判断するのには材料が必要で、その材料がそういったモデルである。感覚を根拠にするよりどれだけ現実的か。この国の政府に限らず、決定権を持つ人々の専門家の軽視は世界全体でも最低レベルである。

フリーランスをしていますが病気で働けないことがあります。記事がなにか琴線に触れたら支援いただけるととてもうれしいです。