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ありがとう習慣5万5千回で思うこと

ありがとう習慣を始めて4ヶ月「ありがとう」詠唱回数が通算5万回を越えました(ざっくりカウントですけど)。
そこで5万回を迎えて得た体感を紹介します。

今月の頭には2万5千回くらいだったことを考えると、急に倍のペースになっています。

これは、いつも在宅仕事中心なのですが、今月は外に出る機会が多く徒歩移動のあいだは「ありがとう、ありがとう」とぼそぼそ言っていたため数を稼いじゃったからですねw

あ、念のため補足しておきますが「絶対に自分にしか聞こえない声量」でささやいていますし、マスクも大体つけてますから多分、周りにはバレてないはず。
(なんかここだけ読んだら犯罪者みたいな物言いですねw)

ただ、マンションの通路で誰もいないと思って油断して「ありがとう、ありがとう」と歩いていたら、曲がり角でご近所さんと遭遇してしまい、気まずかった。。。

声量は抑えめだったのですが、どうだろう。聞かれてた?

「え、この人、今『ありがとう』って言ってた?なんで?」

となっていたかもしれない。

だから目があった瞬間、

(あ、どうも…)

という控えめな会釈だけで去っていったのかもー。
(いつもは割と元気に挨拶してくる奥さんなのだ!)

ありがとうの詠唱は、いつの間にか「変人」のウワサがたってしまうリスクを伴うので、そこは注意が必要ですね汗

【ありがとう5万5千回で起きたこと】

・『ありがとう2万回で起きた奇跡』の記事が、とっても多くの方にお読み頂け、さまざまなコメントが頂けて、ものすごく嬉しい。僕の代表記事になりました。ありがとうございます!

・つい先日のつぶやきでも書きましたけど、亡き父が夢に現れて「ありがとう」と言われました。

場所は実家の父の部屋。
愛用の肘掛け椅子に父は掛けてて、でも夢の中の僕は、父が生きているのは当たり前という感覚だったようで「そんなことより、この子もう出発の時間だから」って普通に流して横で寝てたうちの子を起こしたら僕の奥さんが「じゃ、車で送ってくね」
「あれ、きょう車?なんで?」
そこで(あ、これ夢?)と気づいた瞬間、目が覚めました。

思えば旅行中は、こういう夢は見ませんでしたが。
夢ってなんなんですかね。僕の願望や無意識がこういう夢を呼び寄せたのか、本当に父が夢枕に立ったのか、それはわかりませんけど不思議な体験でした。

・前の休日、外に出てみたら、めちゃめちゃ気温が高くて、暑さに気を取られて、なんでもない二車線の路地を向こう側に渡ろうとして、あやうく車に轢かれかけました。

というか轢かれかけたことには車が通過して3秒くらいしてから気づいたのですが。

道路の向こうから車が走ってくるのは気づいてて
「あれが通過したら道路を渡ろう」
そう思って左右確認してたら、知らぬ間に車が自転車を避けるため僕が歩いていた側に膨らんできていたのです。

しかし、それに気づいていない僕は車がいるのとは逆方向に注意をはらいながら、道路を渡る方向に歩みを進めており、その真横をかすめるようにして車がビューン!と通過していきました。

で、「あれ?」って。

えーっと。

いや、うん。

今これ、実はなかなか死の瀬戸際だったよなと。。。

危機が過ぎ去ったあとに、
でもその危機をまったく認知できていなかったことに気がついて、猛暑の中でゾーッとしました。

もし何かのはずみで、もうあと1,2歩大きく歩みを進めていたら、なんでもない見通しのいい路上で轢かれるという事故になっていたかもしれません。

注意力が散漫になっていたのも、この暑さに気を取られたためだったと思われます。

でも近頃の僕は、なんでも「ツイてる」と思えるようになっているので、このときも「何もなくてラッキー。守護霊さんありがとう」だなんて思ったりしたのですが。

ただまぁ、暑さは判断力を鈍らせます。

ふだんなら何も起こさない場面で思わぬ災難に、ということもありえますのでご注意ください。

・ほか、うちの子がポケモンウェハースで念願だったヤドンのシールが出て大喜びするなどはありましたが、目立った出来事は上に記載したようなことくらいでしょうか。

ただ、特筆すべき点はありまして。

それは以前に比べて「いいことが起きようと起きなかろうと、どっちでもいい」という心境になりつつあるってことですね。

僕は「ありがとう習慣」を始めて2万回の記事の際に書いたとおり、たしかに現世利益的なこともあったのですが、もっとも大きな変化は「視点」が変わったことでした。

始める前は「いいことが起きるならやってみよう」と思って始めてみました。

ここで言う「いいこと」というのは、いわゆる現世利益的なことですね。

臨時収入が舞い込んでくるとか、懸賞に当たるとか、病気が治るとか、そういう誰が見ても「それはいいね!」と思えること。

で、実際にそれに近いこともあったのですが、ただそんなことより大きな変化だと感じたのは、自分の中での世の中の見方でした。

別に2万回のときの記事にしても、とらえようによっては大したことは起きていないと言えちゃう気もします。

ずっと晴れてたわけじゃありませんし(でもそれがちょうどよかったんだけど)高松から琴平へ移動する際は電車の経路を間違えて2時間くらいロスしてます。
こういうのを不運だと捉えようと思うなら、いくらでもそう思うことはできますね。

超常的な現象に思えることも(ぼくはそう解釈したわけですけど)唯物論的な視点で見るなら「ただの偶然」や「錯覚」あるいは「願望が見せた幻」「ただの認知バイアスだ〜」などとみなすことだって可能でしょう。

別に、そういう視点も間違いだとは思いません。僕自身、少なからずそういうものの見方をするタイプの人間でしたし。

ただ今、この視点に立ってみると、かつての自分より今の自分のほうが心地よく感じています。

以前は、なぜそんな唯物論的なものの見方だったかといえば「人の目」「社会の目」を気にしていた、他人軸の世界の方をメインに生きていたからでしょう。

要するに「そういうスピスピした解釈をする人は頭のネジがゆるい、おかしな人なのであって、自分は常識的な人間なのだ」と、そういうポーズをとることを第一優先にしていたのですね、今にして思えばですけど。

でも、こういうのってバランスなんだと思います。

で、今はうまくバランスがとれてる気がする。

だから心地いいですね。

で、変化として感じたのは、
現世利益的なことだけがありがたいこと、いいことじゃなかったんだなってことです。

例えば今日こうして目が覚めて生きてること、パソコンが家にあってNOTEで記事を書けてること、健康的に暮らせていること、とりたてて裕福でもないけどお金に苦労しているわけでもないこと、うまい棒をアラカルトで10本買えてうれしいこと、今日も空が青かったこと、日本が戦争じゃないこと、たまにぽんと劣等感を覚えたりすること、劣等感を覚えるってことは、ああ生きてるってことじゃんと気づいたこと、そんなようなアタリマエの出来事が、もうすでに「奇跡的で充分いいこと」じゃん、と。

いつどんなときでもとまでは言いませんけど、でもそんなふうに割とすんなり思える時間が大幅に増えたんですよね。

だから以前までは

「いいこと欲しいな〜、いいこと欲しい〜、あ、違う。引き寄せのためには『欲しい』って思っちゃだめなんだった。『すでにいいことがある!』『すでに満たされている!』って思わなきゃいけないんだった〜。『すでにいいことがある!』『すでにいいことがある!』」

なんて引き寄せゾンビみたいになりかけた瞬間もあった気がするんですけど、そうじゃなかったなと。

「ぜんぜん見えてなかったけど、
 今、すでにいいことだらけじゃん」と。

そう素直に思えるようになっちゃったな、と感じるんですね。

だから「(いわゆる前の感覚でいうところの現世利益的な)いいことが起きても起きなくても(今すでに、いいことだらけなんだから)別にどっちでもいいかな〜」と。

そんなふうに思えるようになってきちゃったんですよね。

これは、どうなんだろう。
ある意味、ハングリーさを失ってしまったのだろうか? 
もしかしたら、そうかもしれない。
なにか必死こいて這い上がってやるぜ!みたいな感覚がなくなってしまったかもしれない。

まぁ、でも気分良く生きられるなら別にいっか〜、って感じですね。

はい、なんてちょっと聖人めいたことを言いながら、キャリーオーバーという甘い響きに駆られ、しっかりロト7を買って外れたばっかりなんですがw

(や〜、人生やりがいあるな〜気が抜けなくて楽しいな〜)

今日もお読み頂き、ありがとうございました。

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