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『人間の教科書』 他人軸ではなく自分軸主体で生きる

他人軸、自分軸という区別自体していない、できていない、そういう概念をそもそも持っていない、という方もいらっしゃるかもしれません。
そのくらい今の時代、他人軸で生きることが当たり前になってしまっているようにも思えます。

そして、ほとんどの不幸は、この他人軸から発生しているといっても過言ではないでしょう。

正直、僕自身、他人軸から完全脱却できたわけではありません。

だからこそ「自分軸主体で生きる」の意味を今一度見つめ直し、これを取り戻していく必要があるように思います。

では他人軸、自分軸とは一体なんでしょうか。

まず他人軸とは「自己が他者化している状態」です。
具体例をあげます。

 「周りからどう思われるだろう。やだなぁ。やっぱりやめよう」
「あの人は『いいね』が沢山もらえるのに自分はこれだけしかもらえない」
 「あいつはぐんぐん営業成績を伸ばしたのに、おれは全然伸びない」
「俺は人が羨むような成功者になれた。他の奴らはばかばっかりだ」
 「この広い世界で自分は、なんてちっぽけなんだろう」
「否定された。もうやだ。生きていけない」
 「あの人のせいで私の人生はうまくいかない」
「人はかくあらねばならない。でも怖い。誰か私の人生を救ってほしい」

次に自分軸の具体例です。
 「周りは関係ない。俺がやりたいんだから、やってみよう」
「きょうも最初に自分で決めたとおり投稿できた。楽しい」
 「全体から見ると、まだ下位だけど、自分の中では着実に進歩があった」
「自分のしたいことをしてただけなのに、こんなに必要とされて幸せだ」
 「自分だからこそ自分らしい人生を作っていける」
「否定された。でも参考にできるところはして思うさまやればいい」
 「あの人と関わって痛い思いもしたけど、いい学びになった」
「自分がこれをしたい。自分の行動や価値を決められるのは自分だけだ」

こうして並べてみると一目瞭然ですね。
もう何も説明しなくてもいいくらいです。
誰でも他人軸的なスタンスと、自分軸なスタンスを使い分けながら生きているとは思いますが、その割合はどうでしょう。

中には「他人軸」にどっぷり浸かりきっていて「自分軸」なんてものの存在をすっかり忘れ去っている方もいるのではないでしょうか。
生きづらさを感じている方は「自分軸」が足りていない可能性が高いです。
今すぐ「自分軸」の割合を増やしてみましょう。

しかしながら市場価値を問われる社会生活においては他人軸にならざるを得ないような様々な難題がふりかかってきます。
組織から命ぜられるノルマや価値観・評価は客観的な指標・行動指針であり、自己が他者化しやすい状況です。

うまくいっているうちはストレスも少ないでしょうが、しくじると辛い思いをすることにもなります。
会社員をしていれば、こういった状況自体を回避できる立場の人は、そう多くはないでしょう。
だからこそ、こういう状況の中にあっても、自分軸を見失わないように意識していくことが大切です。

例えば上司や周囲の価値判断とは別に、自分の中での価値判断を確立することです。

「あの上司は、無闇やたらに『お前はだめだ』と言ってくる。でもそれは一つの見方に過ぎない。それに自分の中では着実に伸びている部分もある。だから大丈夫。反省すべき失敗は学びにつなげて、淡々とやっていこう」

このように必ず最後は自分軸に落とし込むようにすれば、いたずらに心を病むような事態は回避することが出来るでしょう。

他人軸な目標の中に「東大合格」とか「ナンバー1になる」とか「甲子園で優勝する」「市場価値を上げて年収を二倍にする」というものがあります。

これらを目指すことはいずれも美しいことだとされていますし、必ずしも全否定されるべきものではないでしょう。
自分を発奮させるための、いい材料になる場合もたしかにあります。

しかしながら、これも度を過ぎたり、いい成果を出せないと、ただただ毒になってしまうケースも少なくありません。
「自分は合格できなかった駄目なやつだ」とか「いつも三番手だ」とか「甲子園にも行けないのに野球なんて無駄だった」「年収が上がると思って転職したのに下がってしまった」などというように。

その一方で「ただ数学の問題を解くのが好き」「ダンスをしてると楽しい」「ただ毎週、草野球をするのが何よりも楽しい」「この仕事が天職であり、自分の使命だ」
こんなふうに自分軸を持って楽しく生きている人もたくさんいます。

そういう人の中には「ただダンスが好き過ぎて踊ってたら、スカウトされて活躍の場が知らぬ間に増えた」といったこともあるでしょう。

努力して、やりたくない思いもこらえて苦難に耐えてがんばってきた人と、ただ楽しいという半ば遊びの延長のような気持ちで昇りつめてしまった人がいたなら、確実に後者のほうが大成するのではないでしょうか。

前者の人は、どこかで心が折れたり限界を感じてしまう気がします。
僕は現役時代の松岡修造を応援して追いかけていたことがあるのですが、松岡選手はやっぱり「苦難に耐えてがんばる人」な印象でした(まぁ、ただのイメージなので実態とは異なっているかもしれませんけど)

そういう「苦難」を前提にした頑張る、努力するというあり方だったから、たびたび試合中に脚の痙攣を起こしてしまい、途中棄権で敗北という結果を招いていたのではないか、という気がしてなりません。

そういう「苦難」というのは「評価されなくては」といった他者軸の意識、プレッシャーから生まれてくるのではないでしょうか。

しかし自分軸でテニスを楽しんでいる選手からは、松岡選手から醸し出されていたような必死さ、苦労、忍耐の覚悟が感じられません。
当時でいうならアガシやヒンギス、サンプラスなどでしょうか。
「テニスって最高に楽しいよね」という子供のような雰囲気を醸し出している選手こそが世界のトップに立っていることが多かった気がします。

きっとこういう選手は「誰かに評価されるためにやっている」のではなく純粋に自分が楽しいからのめりこんでいる、というだけなのでしょう。

そういう意味では「他人」が結果に関与してくることは必ずしも目標に含めないほうがいいのです。
「自分」でコントロールできる範囲のことを常に目標にし、判断基準にするのがよいのではないでしょうか。

例えば「大会で1位を取る」ではなく「この技を決める」といったようなことです。
勝負事なら「相手に勝つ」ではなく「自分がベストを尽くす」です。

自分がベストを尽くしてその技を自分が決めれば結果として1位になることもあるかもしれませんが、たとえそれで1位にならなくても自分としては充分納得できるでしょう。
自分軸の人生ならば、それで満足できるのです。

それに順位というのは、共に競技に参加した選手たちとのめぐり合わせも在るわけなので、言うなれば、1位になれたとしても、それは運にしか過ぎない、という見方もできます。

自分を高めるためにただ打ち込んでベストを尽くした。その結果、自分が理想としていた演技ができた。おまけに運良く1位も獲れた。
そんな自分軸主体の目標の方が楽しく健全に生きていけるし、結果的には高いパフォーマンスも発揮できるのではないでしょうか。

「年収倍増」を目指す、というのも一概に間違いとまでは言いませんが、
それよりも「自分はどういう取り組みをしていきたいのか」「どういう価値をどのくらい提供したいのか」「何を解決したいのか」
そういった自分と向き合うことで出てくる思いをしっかり持って、自分軸の生き方をしていくことが大切なのではないでしょうか。

と、他人軸になりがちな僕も日々、自分に言い聞かせています(笑)。

自戒の念をこめて書きました。
この記事をお読み頂き、ありがとうございます。

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