名前があって、そこに愛がある
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名前があって、そこに愛がある

私の苗字は日本に190人しかいない。

190人しかいないのに、同姓同名(漢字まで一緒)が、この世にもう一人いるらしい。(Facebook調べ)

エゴサーチしてみると、私よりもおそらく一回り若い、兵庫県の女性がヒットする。実在するのかは未確認だ。

もし本当に実在したのだとすると、ものすごい珍しい名前にも関わらず、エゴサをするとヒットするのは旅人なのか建築士なのか分からない謎の人(=私)ばかりで、うんざりすることもあっただろう。

もし生きているうちに彼女に会えたなら、「なんかごめんなさい」と謝ってしまいそうだし、もしお酒が飲めるのであれば、朝まで飲み明かしてその支払いを全部私にさせてほしい。それくらいに思っている。

『梅中』という苗字は父親のその父親から受け継いだもの。
父は3人兄弟の三男だ。

私が20歳くらいの時に、父方の祖母が亡くなった。
その時に長男(父の兄)が、『梅中』のルーツを調べて家系図をつくったことがあった。

薄い記憶では「父方の実家は博多の帽子屋だ」だとか聞いていたのだけど、『梅中』のルーツは神戸にあるらしかった。

それらの事実を掛け合わせると、私の同姓同名さんが兵庫にいる説は真実味を帯びてくる。もし会えたのだとすれば、私のおごりで神戸の中華街でたらふくご飯を食べてもらいたい。

そして、もしかしたらもう結婚されて、
苗字が変わっているのかもしれない。


名前があって、そこに愛がある


「名前があって、そこに愛があって」そう歌っていたのは、中2の時に出会ったBonnie Pink『Heaven‘s Kitchen』である。

14歳ながらにその歌詞と、歌声と、彼女のピンク頭のクールさに身震いを覚えたことを、今でも鮮明に記憶している。

何かを愛するのには、その対象に名前がいる。

旅先で美味しそうな食べ物やドリンクを現地の人がみな美味しそうに食していて、私も味わってみたいという熱望に駆られる。

同じものを頼んでみると間違いなく美味しいのだが、「これの名前なに?」って聞いて、「これは〇〇だよ。」と言われて、名前がわかって初めて「これ好き。」と認識し、心の中の好きなものリストに仲間入りするのだ。

名前の由来だとか、原材料だとか歴史などのストーリーを知れたら、もっと好きになれたりもする。

つまり、愛情を注ぐ対象には、必ず名前が必要で。
タピオカミルクティーが「キャッサバを原料とした粒々を牛乳と共に紅茶に入れた甘めの飲み物」だとしたら、たぶんあんなに愛されることはなかったんだ思う。

それほど『名前』というものは愛情と深く関係していてると、私は考えている。

驚愕した、日本の現状

現代の日本では96%の婚姻届提出者が、夫の姓を選択し、新しい戸籍をつくるらしいと知った。妻の姓を選択した友人を何人か知っているので、そうはいっても20%くらい行っているのだと思っていた。
だが、現実はまるで違った。

女性活躍だとか男女平等参画が叫ばれてもう何年経っているのだろうか。「お前は環境に恵まれている」と言われればそれまでだけれども、性別によって正しく評価をされなかったり、逆に優遇されるなんてことは生きてきた中で感じたことがなかった。
だから、妻の姓を選んでいるのが4%というのは、しばらく信じられない数字だった。(今も若干、信じがたいと思っている。)

それでも「普通はそうだ」「それが大多数で常識だ」「私たちの周りには前例がない」という私の大嫌いな壁や慣習で、女性が姓を変えているという現実がそこにあった。

ちなみに『入籍』という言葉は、法律婚だとしても正しい表現ではないらしい。(再婚の場合は、一部そういう言い方をする可能性もある。)
初婚同士であれば、二人とも元々の親の戸籍から除籍をして、新しい戸籍をつくるのだから、どちらかに「入る」というのは正しい表現ではない。

だからといって、「入籍しました」という表現をする人の幸せに水を差してまで社会を正そうとかは全く思っていないので、旦那・奥様・ご主人・嫁と呼ばれても、全く気にしてない。(私も言ってしまうし、正解が分からない。)なので、私たちのことは、どうぞ呼びやすいように呼んでいただければと思います。

いつかは好きな人の苗字になりたい、という女性の気持ちも尊いと思うし、苗字が珍しい方が残すべき、という気持ちもない。

ただ、私は、自分の苗字を含めた『梅中美緒』という名前に、愛情を持っている。という事実だけがある。
ちょっと画数が多いけど、響きも字面も。
この名前を褒めてもらえることだって、人生で何度もあった。

自分がしたくないことを、相手にさせたくない

突然だが、20代以降にお付き合いをした男性はみな、日本の苗字ランキングの上位に入る苗字だった。

いい人なのは間違いないが、もし結婚するとなればこの苗字にはなりたくないかもしれない、というのが心の奥底で引っ掛かりとなっていたのかもしれない、と、今となっては感じている。

あるとき、付き合っていた人と結婚をしようとなったことがあった。
私もこれはそのモヤモヤを乗り越えるタイミングだと思い、苗字を変えたくない旨を打ち明けた。当時は二人で妻氏婚をすることを決断したが、色々な壁が立ちはだかり、道を違えることになった。

70年以上前に廃止されたはずなのに、今もなお現代日本に根強くこびりつく「家制度」や、男尊女卑というものの世界観を学ぶ良いきっかけになった。
私の両親のスタンスを知ることも出来たし、自分のスタンスも確固たるものになった。

結婚にまつわる家制度については、こちらの記事が入口として分かりやすい。

私がしたくない「苗字を変える」ということを、夫にもさせたくない。という芯を通して議論のテーブルにつくことができた。
そして完全なる同意を得ることが出来たので、今こういう形を取れている。
夫には感謝しかない。

生物学的に女性なら、年収が高くても関係ない

生々しい話をしたい訳ではないが、数字で整理すると分かりやすいために明言すると、私は高所得者に分類される。
それは実力というよりも運とタイミングがあるかもしれないし、支えてくれたり、認めてくれたりしている、仲間のおかげであることを、ひとときも忘れたことはない。それでも淡々と数字で分類すると、高所得者に違いはないらしい。

一方、相手の年収が私より高かったことはこれまでほとんどない。

苗字の珍しさでも、年収でもマウンティングするつもりもないし、夫もそんなことを微塵も気にしていない。

家だって99:1の割合で私が出資しているし、夫はそれに対して「犬は飼い主についていくワン!」と笑いに変えるくらい気にしていない。家買った時に1%でもいいから夫と共有名義にしたのは、少しでも生計を共にしているという公的証明書が欲しかったからだし、夫婦別姓が早々に認められるなんてことにも期待していない。

そして、稼げる方が家長となることが、社会システム上で合理的な世の中であることに間違いないのに、生物学的に女性だというだけで、こう言われる。

「苗字くらい喜んで変えられないなんて、愛情がない。」
「夫婦別姓なんて、女の方にしかメリットがない。」
「旧姓で仕事すればいいじゃん。」

愛情の深さを、赤の他人が推し量るために、苗字を差し出す世の中なんて、ちょっと異常ではないでしょうかね。

一番悲しいのは、それらが女性から女性に向けられた言葉たちであること

それらの言葉は、大抵が女性(姑)から女性(妻)へ投げつけられる。

女性の足を引っ張るのは、いつだって女性だ。
戦う敵はそこじゃない、女性同士で脚元すくいあってる場合じゃないのに。

「無能なブスが嫌い」という私の暴言を聞いたことがある人も、結構いるはず。(口が悪くてすみません。)
でもそれは期待の裏返しであって、自分の時は認められなかったからとか、自分が古い考えだと思われたくないとか、好きって気持ちが強くて伴侶に尽くしていれば生きていけるなどという思想を押しつけて、他人の生き方や選択に干渉や評価をするという言動は、発する前に少しだけ考えてみて欲しいし、それだけ意思を持って戦わないと女性差別のなくならないということでもあるんだよね。

「アイデンティティの喪失」を理解してくれた周囲の反応


事実婚を選択する理由について他人に語るときに、一般的には「アイデンティティの喪失」という意味的価値を表現しても伝わらないことが多い。

そんなときに、「婚姻前の経歴や論文・受賞歴が紐づかなくなる」という機能的価値を、分かりやすいからという理由で説明に使っていた。
特に私は、一級建築士という国家資格を持っているので、高収入とともに国家資格をW印籠のように見せることで、理解が得られそうだと勘違いしていた。

しかし、今回は、私の周りでは「アイデンティティの喪失」をしたくないという一言で大概を理解してくれて、賛同したり、興味を持って積極的に聞いてくれる人しかいなかった。私の恐怖心よりもずっと、周りが寛容で好意的だった。
どこかで周囲を信じきれていなかった自分が、少し嫌になった。前の時よりも時間が経って時代が変わったからかもしれないし、個の時代になったことによる変化のひとつかもしれないけれど、なんにせよ、とてもありがたかった。

私の場合、苗字に『梅』がつく人あるあるで、ほとんどの人に「梅ちゃん」的な呼ばれ方を人生の大半においてしてきたので、伝わりやすかったかもしれないけれど。
そうやって受け入れてくれたり、背中を押してもらえる環境があることに、改めて感謝するきっかけにもなった。

”家族の一体感”にファミリーネームは必要か

たしかに、家族全員が同じ苗字であれば、分かりやすいかもしれない。
表札も一つでいいし、宛先も一つの苗字を書けばよい。

でも、年賀状を書かなくなって久しいし、東京の人はセキュリティの観点から表札を出さない人も多い。佐藤さんと佐藤さんが同席していたら家族として見做す訳でもないし、そもそも外国籍の方との婚姻で姓が異なる夫婦なんて、そこら中にいる。

二人で保険に入りやすいとか扶養控除受けられるとか、相続がどうという話も出てくるが、それらは事実婚先駆者のおかげで、別の手法の情報が山ほどある。
そもそも扶養したってなんのメリットもないくらい世帯収入がある。苗字が同じだからって私たちには何の価値もない。

「自分たちのアイデンティティ」となにを天秤にかけても、ピクリともしないくらい、私たちにとっては「アイデンティティ」が重いのだ。

そして、結婚はあくまで生活の延長であって、一過性のイベントでもパフォーマンスでもない。

苗字が違う二人だって、ご飯を食べて家事を分担して、二人で行く場所を決めて、食材を買って、美味しいね、きれいだねって言って過ごしている。

私たちの目の前には、きちんと、「生活」というリアルがある。

夫婦であるという一体感は間違いなくここにあるし、今後家族の形が変わったとしても、積み上げた時間や絆が崩れることはない。

「互いがフェアである」ことで生まれる”家族の一体感”もある

それどころか、「互いがフェアである」ということで私たちには”家族の一体感”がある。誰にどういわれようとね。これはあくまで、私たちの話。

夫は私にこう言った。
「僕の苗字を残させてくれてありがとう。」

夫の父親は、10歳の頃に病気で亡くなったそうだ。
その父親と同じ苗字で、死ぬまで生きていたいのだ。

私と一緒だ。
名前がアイデンティティであって、愛情の対象なのだ。

そんな、選択的夫婦別姓制度が整わない現在の日本では法律婚を選択できなかった。という話。

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本記事は、ディスタンスを取りながら結婚報告を行い、参加型ハネムーンと選べる内祝いをお届けする「投げ銭ハネムーン」に関する内容です。

気になった方は、覗いてみてください。


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組織設計事務所のサラリーマンでありながら、現役バックパッカーとして「旅をしながら働く」実証実験3年目。渡航国数は世界102ヶ国。多拠点居住してます。夢は死ぬまでに世界のすべての風景を見ること。ワークスタイルデザインをしながら文化人類学を学んでいます。エスノグラファーになりたい。