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万華鏡

 最後に万華鏡を覗いたのは何時だつたか、正確な事は思ひ出せない。恐らく小学校低学年の頃が最後ではなかつたかと思ふ。いづれにしても、久しく万華鏡を手に取らずに過ごしてきた事は確かである。

 幼い時分に覗いた万華鏡は、土産物店で買つて貰つたものだつたと記憶してゐる。それは高価なものではなく、設計に凝つたものでもなかつた。鏡の反射が織成す紋様は、比較的簡素なものだつた。無論、幼い子供はそんな事を一々気にしない。万華鏡を覗いた時に見える紋様が、筒をクルクル回すに随ひ、次々に――しかし一定の規則性の下に――変つて行く。この事だけが、私の注目する所となつてゐたのに相違ない。

 紋様が一定の規則性に従ひ、次々に変化する。これが長らく、私が万華鏡に対して抱く印象だつた。そこでは、変る事に注目してゐるのである。
 
 然るに、近頃は異る印象を万華鏡に対して抱く様になつた。それはかういふ事である。万華鏡を覗いた時に見える紋様は、筒の中に鏡を何枚入れるかによつて、或は紋様の基となる物の色などによつて変化する。しかし紋様の変化の源となる事は何かといふと、万華鏡をクルクルと回すといふ、人間の行為に外ならない。要するに、万華鏡の中で展開される紋様が如何に変化しても、万華鏡をクルクルと回して中見を見るといふ人間の行為の型は、如何程も変つてゐない。これが最近になつて、万華鏡に対して抱く様になつた印象である。

 そして、万華鏡について抱く様になつた印象と同様の事は、社会についても言へるのではないかと思ふ。日本では30年以上に亘り、「改革」といふ言葉の下、種々の事業が行われてゐる。否、近30年に限らない。明治以来、日本は常に「改革」一辺倒だつたと言つても、別に差し支へはないと思ふ。時期により社会の姿は異つてゐる。確かに変化は起きてゐる。しかし、さうして次々と変化を経てゐるにも拘らず、何やら昔の時代と共通するものが感じられるのも、確かな事である。蓋し、かかる事態が生じるのは、その時々で問題となつてゐる事は違つても、同じ様なやり方で変化が実現されてきたからであらう。

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