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【創作物】白夜の卵


 夏至も過ぎた夏の晩。辺りに音はなく、静まり返った水面に映る丸い月だけが、その輝きを鳴り響かさんばかりに煌めいていた。

 「ほんとうに静かだ」

 「ああ、満月だからね。月の晩のなかでも満月の日に出る音は、白夜にとって最上級の味なんだよ」

 白夜とは、海里がつけた鳥の名前だ。月夜の晩、ときおり姿を見せる月下鳥で、周囲の音を食べるという珍しい鳥だ。
 夏休みになったら湖畔にある叔父の別荘に行き、白夜の卵をとろうという誘いを受けた夏央は、植物の蔓でできた大きな旅行鞄に荷物を詰めて列車に揺られ、数日前から海里の叔父のもとに滞在していた。

 「きっと今頃は腹が膨れてますます青白く光っているだろうさ」

 そう言うと海里はひらりと踵を返し、湖を背に歩き出した。夏央はそのうしろを慌てて追う。
 彼らが頼りにしているのは、月明かりを除き、海里が手にした鬼灯に似た貌の提灯だけだ。外界を遮断するほど高くそびえる樹々が鬱蒼とするこの辺りは、海里には勝手知ったる庭でも、夏央にとっては薄ら寒い夜の林でしかない。
 すたすたと先を行く海里の背中を緋色の燈りを頼りに追いながら、夏央はふと、その少し先の上方にボウと浮かび上がる青白い光を見つけた。
 夏央が息をのむ音を聞きつけた海里が振り返り、口元で人差し指を立てる。

 「白夜だよ。満月の晩はああやって光るから、暗闇でも見つけやすいんだ」

 ふたりが歩いてきた小道の先、ひっそりと佇む洋風のあずまやの屋根に、夏央はそれらしい姿をみつけた。しかし内から発光しているその鳥の輪郭はいまひとつ捉えることができない。

 「今夜はここで休むつもりだな。ほら、もう羽をたたんでいる」

 海里には白夜の様子が見えているようで、抑えた声には歓喜がにじみ出ていた。
 青白い発光体は、一定のリズムでその光の強弱にわずかな変化を伴っていた。それは確かに生き物が呼吸をする間合いに似ている。

 「よし、今夜はもう切り上げて、明日の朝もう一度来よう。きっとあのあずまやで卵を産んでいるだろうから」

 あくまで卵の方に興味がある海里は、早々に鳥の観察を終えて帰ろうとする。普段から頭の回転が速い彼は物事に飽きるのも早く、好奇心の向く先は次々に移っていく。そんな海里にときおり目を回しつつ、夏央はなぜかいつも最終的に彼には逆らえないのだった。


 
 あくる日の林は、昨夜の静寂と暗闇とが支配する妖しくも神秘的な様子とは打って変わり、さえずる小鳥たちのコーラスが少年たちの頭上で響いていた。陽光の下で見る緑の樹々は風にそよぎ、木漏れ日の囁きを放つ。

 「見ろよ夏央。やはり奴は昨晩ここで産んだんだ」

 目覚めてから早々に林にでかけた海里と夏央は、あのあずまやにいた。海里が指差す先にある卵はダチョウのそれと同程度のかなりの大きさだ。薄水青の滑らかでわずかに光沢を感じる質感は、青磁の置物を思わせる。

 「ほんとうに持って帰るのか、海里」

 「そうさ。そのために今回は君を誘って叔父のところまで来たんじゃないか」

 「でも、いったいそれをどうするつもりなんだ」

 「食べるんだよ」

 涼しい顔をして言う海里に、夏央は愕然とする。

 「叔父に聞いたんだ。孵化する前の卵をすり潰して粉にすると万能な薬になるって」

 薄青い楕円形の物体をみつめながら話す海里の目はどこか焦点が合わず、その瞳の奥深くで燻るギラついた何かに夏央は気づいた。

 「海里、やはり卵をとるのはよそう。こんな得体の知れないものを食べるだなんて、君はどうかしているよ」

 「こわいのか」

 海里が不意にこちらを向いた。磨かれた黒曜石のような彼の美しい目が正面から夏央を射抜く。夏央はこの目に弱い。

 「思い出したんだ。昔祖母が言っていたことを。月は心の底にあるものを引っ張り出すんだ。特に満月の力は強力だから、あまり見てはいけない、収拾がつかなくなるって」

 臆しつつもなんとか答えた夏央に、海里が微笑を投げる。

 「そうして暴走した人間たちが発した音を白夜が食べる。奴の体内で消化されたあらゆる感情が、こんな見事な卵に生まれ変わるんだ。試してみたくならないのか」

 少年たちの傍を、夏の早朝の爽やかな風が、夜露に濡れて濃くなった草木の香りを連れて吹き抜けていく。しかし夏央には、そよぐ樹々も鳥のコーラスも、もう先刻までと同じように聞くことはできなくなっていた。
 海里から目を逸らせぬまま、それでもゆっくりと首を横に振る夏央に、海里は肩をすくめた。

 「夏央はまったく意気地なしだなあ」

 「君が無鉄砲なんだよ」

 「まあ、いいさ。それなら僕ひとりで試すことにするから」

 海里はそう言い残すと、卵をモスリンのハンカチに慎重に包み、さっさと別荘へと戻ってしまった。あとに残された夏央は、行き場を失った不安と焦燥を抱えたまま、あずまやの傍でしばらく立ち尽くしていた。


 
 『ギ、ギギギ、ギ・・・』

 何処からか、石で砂を擦るときのようなざらついた音がする。

 『ギ、ギギギ、ギア、ァ・・・』


 
 どれくらい経ったか、気づくと夏央は頬に当たる大理石の冷たさで目覚めた。不貞腐れてあずまやのベンチに腰掛けたのはいいが、そのまま眠り込んでしまったらしい。陽はとうに高く昇り、あと数時間もすれば天頂に届くところだ。気温もずいぶん上がっている。
 昨夜からあまり眠れていないうえに海里との気まずさを抱えた夏央は、溜息をひとつ漏らした。

 「それを昨晩聞きたかったのに」

 とつぜん前方で声がして、夏央は驚いて顔を上げた。あずまやからのびる小道の先、再び林へと続くその境の木の下に、彼と同年代くらいの少年がひとり立っていた。

 「きみは、」

 「そんなことより、はやく彼を止めた方がいい。あれは出来損ないだから口にしたら最後、気が触れてしまうぞ」

 「どういうことだ」

 「聞いただろ。あの音を」

 すると夏央は、再び石と砂の擦れる音を聞いた。ざらざらと重たい音に混じって、微かに人の声のようなものも聞こえている。

 「いい度胸してるよな。あんなものをバターと砂糖に混ぜて焼いてしまおうだなんて。見ろよ、もう煙突から煙が出てきた」

 少年が指さす先の上空を見ると、目の冴える雲ひとつない夏空のなかに、灰白の細い筋が昇るところだった。それは夏央に、祖母の葬儀の後に見た光景を思い起こさせた。


 『 ――― よいね、夏央。月に惑わされてはいけませんよ。人は一歩一歩、自分の道を行けばよいのですよ ――― 』


 脳裏に響いたのは、夏央が幼い頃に聞いた祖母の声だった。彼は弾かれたように、煙の立ちのぼる方へと走り出す。絡みつく夏草や垂れる樹々の先に手足を擦りむきながら、それには一向かまわず無我夢中で海里の元へと急いだ。

 
 『ギギギ、ギアァ、ア・・・』

 
 音に混じった声の比率が徐々に大きくなる。吸い込む息のなかに、香ばしい焼き菓子のような匂いも混じりだした。熱を帯びたその香りは、夏央の鼻腔を通して脳から腹へと染み入り、甘い言葉で彼を誘うのだった。
 やっとの思いで別荘に着くと、乱れた呼吸もそのままに台所へと向かった。あたり一面に広がる砂糖とバターの焦げる匂いに、夏央はめまいを起こしそうになる。

 彼の帰宅に気づいた海里が驚いたように振り返った。ミトンをはめたその手には、たった今オーブンから取り出したばかりの焼き菓子が載っていた。

 「ちょうどいいや、たった今焼けたところなんだ。良い香りだろ」

 出来栄えに満足しているらしい海里は、先刻の諍いのことなどすっかり忘れているといった風で、満面の笑みを浮かべ、手にした完成品を夏央に見せる。

 「昼食にしよう。夏央、手を洗ったら冷蔵庫からミルクを出してくれ。それから果物の瓶詰も。僕はこいつを切り分けとくから」

 そう言って背を向けた海里の肘を、夏央は後ろから掴んだ。

―――――――――


 夏央が走り去ったあとのあずまやに、一羽の鳥が休んでいる。
 ひさしの陰に入り、大理石のベンチにしばらく蹲っていたかと思うと、おもむろに翼を広げた。陽の光の下に出た途端、それはたちまち細かな光の粒となり、鳥の姿は跡形もなく消失した。
 無数に煌めく粒子は、ゆっくりと静かに地上に舞い降り、夏草の緑に黄金のおしろいを施している。その上を、夏の午後の風が吹きそよぐ。






約3年前の今頃投稿した「白夜」https://note.com/umeki1998/n/n3fe464a50a43を手直しして完成させたver.

ひとつの物語を創れたという達成感を噛みしめている、処暑の候。

お気持ちをいただけたら大変喜びます。