なぜ「ダウンタウンは3人いる」のか?-松本人志の有名な「批判」を振り返る
ダウンタウンは2人ではなく、3人である。実は「三人目のダウンタウン」がいる。このことについてはすでに書いてきました。
これはまあ、ウソのようなマコトのはなし、といってもいいんじゃないでしょうか。吉本興業の会長を退任される大﨑洋さんが、著作『居場所。』のなかでそう書いていらっしゃるんですから。
大﨑さんがその根拠として同書で挙げていらっしゃるのは、伊藤愛子著『ダウンタウンの理由。』(1997、集英社)です。大﨑さんいわく、「2年間にわたって松本・浜田に密着取材をした吉本公認の本」(『居場所。』、p. 146)だそうです。
吉本非公認の研究をしている私にとっては、こうした吉本公認の本こそ疑ってかかってみたい、というところです。もちろん、『ダウンタウンの理由。』はいい本ですので、一読の価値はあります。でも、私は「聖典」のような本では見えてこない、それ以外の部分を掘り下げてみたいのです。
大﨑洋という人物
さて、「三人目のダウンタウン」というと、大﨑さん以外にもいろんな人の名前が挙がりそうです。芸人であれば今田耕司さんでもいいでしょう。放送作家なら幼なじみの高須光聖さん。スタッフなら菅賢治さんなど、誰でも思いつく人がいます。ほかにもサポートをしてきたたくさんのスタッフがいるはず。
ただ、大﨑洋さんの場合はちょっと違う。売れない若手漫才師であったダウンタウンを、自称マネージャーという立場で売り込んでいった。そこには、たんに二人をサポートするという以上の、もっと積極的な意味があったのではないか。たとえば、大﨑さんはかつてこんなことを言っています。
これは、関西で1970年代の後半から始まった、上方漫才の復興運動「笑の会」の10年間の活動(だったと思う)をまとめた本からの引用です。この本のなかで座談会が行われた。1985年に出版されたので、そのころのことだと思う。そこで、大﨑さんは関西の作家・藤本義一を名指しで批判した。
『遺書』における藤本義一批判
これはなかなか大胆な発言です。藤本義一といえば、まあ関西の重鎮といったところでしょうから。そこで思い出されるのが、松本人志の著作『遺書』で、松本さんが藤本義一を痛烈に批判したことです。
なにが言いたいかというと、あの『遺書』の有名な箇所は、実はすでに大﨑さんが10年ほど前に言っていたということです。おそらく、ダウンタウンと大﨑さんのあいだで「アンチ・藤本義一」という考えができあがっていたのでしょう。ただ、1985年当時はダウンタウンに発言権がない。そこで、大﨑さんが彼らを代弁する形で立ちあがったのではないか、と推測するのです。
というわけで、大﨑さんは「三人目のダウンタウン」である、といってもいいですが、私はむしろ、さまざまなことの先陣を切っていった「一人目のダウンタウン」だったのではないか、そのあとをあの二人がついていったのではないか、という気がしています。ダウンタウンが売れるには、大﨑さんという存在は本当に大きかったんですね。
ところで「笑の会」とは…
ちなみに、この「笑の会」は、触れられることはほとんどないですが、漫才の歴史を語るうえで無視することのできない運動だと考えています。1980年に起こったマンザイブームの母体となったのが、実はこの「笑の会」だったからです。
簡単にいうと、若手漫才師と若手漫才作家を両輪で育てる、という運動体です。上方漫才の父と呼ばれた漫才作家の秋田實が発起人に名を連ね、同氏の死後は藤本義一が世話役を引き継いだ。
そこには、マンザイブームで人気が出る前のザ・ぼんちやオール阪神・巨人、太平サブロー・シロー、B&Bなんかが参加していた。ある意味、すごい運動体だったわけです。
この「笑の会」があるとき東京公演をやった。これが非常にうけて、マンザイブームにつながっていった、というのが歴史的な流れです。
その意味では、その世話役をやっていた藤本義一さんについても、「松本人志による批判」というバイアスをいったん取り去って、上方漫才における貢献など、積極的な意味で再検討すべきでしょう。また機会を見て取り上げてみたいと思います。
では、また次回。(梅)
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