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なぜ「ダウンタウンは3人いる」のか?-松本人志の有名な「批判」を振り返る

ダウンタウンは2人ではなく、3人である。実は「三人目のダウンタウン」がいる。このことについてはすでに書いてきました。
 
これはまあ、ウソのようなマコトのはなし、といってもいいんじゃないでしょうか。吉本興業の会長を退任される大﨑洋さんが、著作『居場所。』のなかでそう書いていらっしゃるんですから。
 
大﨑さんがその根拠として同書で挙げていらっしゃるのは、伊藤愛子著『ダウンタウンの理由。』(1997、集英社)です。大﨑さんいわく、「2年間にわたって松本・浜田に密着取材をした吉本公認の本」(『居場所。』、p. 146)だそうです。

吉本非公認の研究をしている私にとっては、こうした吉本公認の本こそ疑ってかかってみたい、というところです。もちろん、『ダウンタウンの理由。』はいい本ですので、一読の価値はあります。でも、私は「聖典」のような本では見えてこない、それ以外の部分を掘り下げてみたいのです。

大﨑洋という人物

さて、「三人目のダウンタウン」というと、大﨑さん以外にもいろんな人の名前が挙がりそうです。芸人であれば今田耕司さんでもいいでしょう。放送作家なら幼なじみの高須光聖さん。スタッフなら菅賢治さんなど、誰でも思いつく人がいます。ほかにもサポートをしてきたたくさんのスタッフがいるはず。
 
ただ、大﨑洋さんの場合はちょっと違う。売れない若手漫才師であったダウンタウンを、自称マネージャーという立場で売り込んでいった。そこには、たんに二人をサポートするという以上の、もっと積極的な意味があったのではないか。たとえば、大﨑さんはかつてこんなことを言っています。

大﨑 僕は若い子に聞かれると、僕自身、損得勘定を抜きの舞台でお笑いを作るというのはすっきりしないところがあると思う。ただブレーンや台本が必要なコンビについては、行った方がいいと言っている。ただ、彼ら自身、読売テレビに対するお付き合いで行ってるというところもあるようだ。
それに藤本義一さんは「プロダクションは笑いをつくる上でのネックになっている」という発言をされており、そういう発言をしてる人が権威として座ってるところへは行かせたくない。
新野 権威として座ってるというのはどうかな。藤本さんというのは権威というものを絶えず否定してきた人だから。
大﨑 でも、そういう発言とともに笑の会をやるというのは違うと思う。
新野 でも、お笑いというものを追求していったら、プロダクションというのはある意味でネックやで。ま、新しい笑いを追求する立場から見たら、金もうけを追求するリアル派はネックになる場合もあるというわけや。
大﨑 でも、本当に面白いものを作り、なおかつそれが商売になればいいのではないか。吉本興業というのは金もうけを追求する会社ですが、その中で若手の漫才師と新しいコントを作って、それが商売につながればそれでいいと思う。
新野 それはいいことやね。若い社員が若手の芸人と一緒になって新しい笑いを作るというようなことは、今までこの世界にはなかったんと違うかなァ。
冨井 それから、笑の会というのは作家の養成を目的としたものであるのに、実際にはタレントが目立っている。そういう中途半端なところがかかわりにくい気がするんです。

笑の会出版部(編)、『笑いの戦記 「笑の会」の全記録』、創元社、pp. 75-76 

これは、関西で1970年代の後半から始まった、上方漫才の復興運動「笑の会」の10年間の活動(だったと思う)をまとめた本からの引用です。この本のなかで座談会が行われた。1985年に出版されたので、そのころのことだと思う。そこで、大﨑さんは関西の作家・藤本義一を名指しで批判した。

『遺書』における藤本義一批判

これはなかなか大胆な発言です。藤本義一といえば、まあ関西の重鎮といったところでしょうから。そこで思い出されるのが、松本人志の著作『遺書』で、松本さんが藤本義一を痛烈に批判したことです。

デビュー当時、よく新人漫才コンクールのようなステージに立たされ(これはレコード大賞を意識しているのであろう)、なまじっか才能があるがために、最優秀新人賞などをよくもらった。それ自体、いまとなってはあまり意味のないものだが、まあ当時はうれしかったものだ。だが、この後がタチが悪い。
司会者「さあ、それでは、最優秀新人賞に輝きましたダウンタウンのお二人に、もう一度、先ほどの漫才を受賞漫才としてやっていただきましょう。ハリキッテどうぞー!」
〔中略〕
同じネタを二回やってうけるわけがない。まして、漫才というものは、いかにアドリブっぽく見せるかという部分が大切であり(持論)、特にオレは同じことを二回言うのが大嫌いで、ほんの何時間か前に言ったこととまったく同じことを言うのは、恥ずかしくて顔が真っ赤になってしまう。
〔中略〕
もう一度言おう。笑いと歌をいっしょにするな! いまでもそんな番組を大阪の放送局、ただちにやめなさい! 審査委員長の藤本義一君もやめなさい! 君は、素人以下だ! 笑いに携わるのをやめなさい。

松本人志、『遺書』、朝日新聞社、pp.  13-14

なにが言いたいかというと、あの『遺書』の有名な箇所は、実はすでに大﨑さんが10年ほど前に言っていたということです。おそらく、ダウンタウンと大﨑さんのあいだで「アンチ・藤本義一」という考えができあがっていたのでしょう。ただ、1985年当時はダウンタウンに発言権がない。そこで、大﨑さんが彼らを代弁する形で立ちあがったのではないか、と推測するのです。

というわけで、大﨑さんは「三人目のダウンタウン」である、といってもいいですが、私はむしろ、さまざまなことの先陣を切っていった「一人目のダウンタウン」だったのではないか、そのあとをあの二人がついていったのではないか、という気がしています。ダウンタウンが売れるには、大﨑さんという存在は本当に大きかったんですね。

ところで「笑の会」とは…

ちなみに、この「笑の会」は、触れられることはほとんどないですが、漫才の歴史を語るうえで無視することのできない運動だと考えています。1980年に起こったマンザイブームの母体となったのが、実はこの「笑の会」だったからです。

簡単にいうと、若手漫才師と若手漫才作家を両輪で育てる、という運動体です。上方漫才の父と呼ばれた漫才作家の秋田實が発起人に名を連ね、同氏の死後は藤本義一が世話役を引き継いだ。

そこには、マンザイブームで人気が出る前のザ・ぼんちやオール阪神・巨人、太平サブロー・シロー、B&Bなんかが参加していた。ある意味、すごい運動体だったわけです。

この「笑の会」があるとき東京公演をやった。これが非常にうけて、マンザイブームにつながっていった、というのが歴史的な流れです。
 
その意味では、その世話役をやっていた藤本義一さんについても、「松本人志による批判」というバイアスをいったん取り去って、上方漫才における貢献など、積極的な意味で再検討すべきでしょう。また機会を見て取り上げてみたいと思います。
  
では、また次回。(梅)

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