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松本人志監督はなぜ『しんぼる』を撮り急いだのか?

映画作家・松本人志は、長編第1作『大日本人』(2007)の成功のあと、『しんぼる』(2009)を撮り上げた。だが、両作品の作風の変化に戸惑った人もいるだろう。『しんぼる』は難解で、自省的な作品である。日本人には苦手かもしれない。
 
前回指摘したのだが、映画作家はときに内省的な作品を撮ることがある。たとえば北野武は、『TAKESHIS'』(2005)を撮った。自分の名前がタイトルになっている。まあ自画像みたいなものだろうか。
 
ゴッホが大好きな松本人志も、ひょっとしたらゴッホのような自画像の映画作品を作ってみたいと思ったのかもしれない。それが『しんぼる』だ。


松本人志とカンヌ映画祭


松本人志は、よく考える人なのだろう。その真面目さが『しんぼる』に現れている。彼なりに映画に深く向き合ったのではないだろうか? 
 
私的は『しんぼる』は実は好きな映画だ。彼の長編作品のなかでは、一番大胆にいろんなチャレンジをしていると思う。この点は大いに評価していい。では、『しんぼる』はどうしてあのような作品になったのか?
 
ポイントは、前作の『大日本人』にあると思う。この作品はそれなりに成功した。それは、彼が蓄積してきた経験やギャグを一杯詰め込んだからだ。往々にして、映画作家の長編第1作は、奇跡的にその人を体現するような優れた作品に仕上がることがある。たとえばゴダールとかトリュフォー。
 
松本人志の不幸は、おそらく『大日本人』を撮った後に訪れた。つまり、この作品は国際的な映画祭であるカンヌ映画祭に出品されたのだ。これにより、日本のコメディアン、松本人志は「世界」の観客と出会うことになった。
 
彼は現地の観客たちの評価を肌で実感したはずだ。そして、彼は「世界」を意識しはじめた。おそらく本人は、もともと外国嫌いなはずである。なぜなら、「外国人は面白くないから」、そして「日本人が一番面白いから」。
 
ちなみに過去にはこんなことも述べている。

絶頂期に実際に渡米した野沢直子に対して、久しぶりに会った松本人志が言った言葉である。彼は、「アメリカ人って、おもろないやろ」と屈託なく言った。

『昭和芸人 七人の最期』、笹山敬輔、文春文庫、2016、p. 173

『しんぼる』を撮り急いだ松本人志 


そんな外国人が自分の映画を評価してくれた。松本人志にとっては「感激」の一言だっただろう。これを受けて、世界に向けた映画、自分と世界がつながる映画が撮りたくなった。この欲望から『しんぼる』が生まれたと私は考える。
 
でも、内省的な作品を撮りたいという「欲望」が、あまりにも早く到来したんじゃないだろうか。北野武の場合、『TAKESHIS'』は、映画作家になって15年後、12本目の長編作品だった。一方、松本の場合は『しんぼる』はまだ2作目である…。
 
それで、多くの人を混乱させてしまったのではないかと。これは不幸というほかないんじゃないでしょうか? 彼は『しんぼる』を撮り急いだのだ。もっといろんなギャグ映画を作ってからでもよかったと思うのだが…。
 
続きはまた次回。(梅)

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