「テキトウ飯」の美味しさに、腹を立てる必要はなくってよ
実家の母のつくる玉子焼きは、甘くない。
砂糖ではなく塩で味付けし、真ん中に海苔が入っているのが、子どもの頃に母がよく作ってお弁当に入れてくれた玉子焼きだった。
自分で料理をするようになった今、私にとって玉子焼きは卵料理の中でも少し面倒な部類に入る。そのため会社に持って行くお弁当に入れるのはほぼ100%、玉子焼きではなく茹で卵である。
お弁当の卵焼きのみならず、子どもの頃母が毎日作ってくれた晩ご飯も、それなりに手間ひまかけて作られたであろう料理が並んだ。ハンバーグや唐揚げ、春巻きやロールキャベツやクリームシチューといった主菜の他に、サラダやお豆腐、おひたしなどの副菜、お味噌汁とご飯がついてくる。
こう言うとたいそう料理上手な母をイメージされる気がするが、母の料理は大抵薄味で、ときには薄味すぎて味がないこともあった。家族の健康に気を遣ってのことだったのだろうとも思うし、同時にそんなに料理が得意な母ではなかったのだろう、とも思う。
それでも毎晩、きちんと主菜や副菜が並ぶ食卓には、パスタやラーメンだけが出てきたことはなかったし、主菜一品のみなんてこともなかった。私を含む3人兄姉がアレルギーもなく、偏食もせず、たいした病気もなく健康に育ったのは、母が毎日愛情込めて作ってくれた食事の功労は計り知れない。
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にも関わらず、子ども心に私の記憶に残っている味といえば、日曜日にごくたまに父が作ってくれたチャーハンだ。
ご飯、卵、レタス、しらすを適当に炒める。最後にちょっとだけお醤油を入れて、お皿によそったら最後に鰹節をのせる。
フライパンでちょっと焦げた醤油の香りと、ほかほかのチャーハンの上で踊る鰹節。料理ができない父が作るチャーハンは、なんだか嬉しくて、たまにしか味わえないせいもあってかとても美味しく感じられたのを覚えている。
子どもたちの栄養バランスを考えて、毎日きちんと夜ご飯を用意してくれていた母からするとちょっぴり報われない話だ。
大人になってから聞いたところ、母は料理があまり好きではないそう。面倒で面倒で、父と2人になった今、手間のかかる料理はできるだけ作りたくない、らしい。
数十年もの間、当然のように家族のために料理や家事を1人でこなし、家を守ってきた母への感謝の思いはもちろん、3人の子どもが巣立ったいま「料理なんて全然したくない」という母の言葉をちょっとした切なさと共に受け止めた。
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母がすでに3人の育児をしていた年になっても、今だに独身の私の現在は、自由気ままな食生活である。
自分が食べたいものを、料理をしたい気分の時だけ、マイペースに料理する。予想外に美味しくできた時には「私って天才なのでは…」と自己肯定感が爆上がりするが、思ったほど美味しなくても食べられれば特に問題ない。お腹を空かせて待っている誰かがいないというのは、非常に気楽である。
そんな私に、最近「ご飯を作ってほしい」というKYな男性が現れた。
レシピ動画を見ながらちょこちょこ料理する程度の私にとって、なかなかプレッシャーを感じさせる言葉である。毎日自分で食べる分には問題ないが、腕によりをかけて人様に振る舞えるほどの料理などまったくない。
しかし、そこは三十路を過ぎた女のプライドもある。「料理上手」とまでは言わなくとも、そこそこ料理ができる女性と思わせたい。もちろん、純粋に美味しいご飯を食べさせてあげたい気持ちもある。
が、しかし。そもそも好きな女性にいきなりご飯を作ってくれだなんて一体どこの昭和男だ?、外国人の元彼は私にご飯や家事を求めたことなんて一度もなかったぞ?、とジェンダー論を持ち出すのもまた三十路女の悲しいリアルである。こうして「彼の家で料理をする」というミッションからまんまと逃れた。
そんなある日、彼の家を訪れた際、小腹が空いていた私に「テキトウでいいなら」と相手がご飯を作ってくれた。切った肉、野菜を炒め、シーズニングソルトで味付けし、ご飯の上にのせる。さらにしらす、生卵を乗せて、賞味15分ほどで出来上がり。タンパク質もしっかり摂れる。普通にめちゃくちゃ美味い。
切って、炒めただけ。その名も「テキトウ飯」。
子どもの頃に父が作ってくれたチャーハンといえ、彼の作るテキトウ飯といえ、なぜ男性が作るテキトウな料理は美味いのだろう。手間ひまかけて調理され、美しく盛り付けられた女性の料理よりももしや美味しくも感じられ、それなのに雑でテキトウ。
「テキトウだけど」というパワーワードも恨めしくなってくる。「冷蔵庫にあるもので、適当に」と、手早く美味しい酒のアテを作れる、憧れの女性のそれに近しい気すらしてくる。
テキトウ飯によってますます戦意を削がれた私が、彼の家でご飯を作ってあげる機会はいまだにない。
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その日、とても疲れていた。ちょっとした人間関係に心がすり減って、もう何もしたくないレベルに荒廃したメンタルで彼の家にたどり着いた。いつも通りお風呂を入れて、テキトウ飯を作ってくれた。
炒めただけの鶏肉とパプリカとしめじ。
炊飯器からよそったご飯。
しらす、生卵。
美味しかった。お風呂できれいになった体を、さらにほっと包み込んでくれるような、平凡な美味しさだった。
結局のところ、外で食べる美味しい食事とお酒よりも、レシピサイトを見ながらたくさんの調味料を使って作ったご飯よりも、そういうときに何より染みるのは見慣れた食材を家で調理したいつものご飯だ。
ほかほかの白米があって、肉野菜がシンプルに調理されていさえすればそれでいい。そのぐらいの肩の抜け具合が、弱った体と心にはちょうどいい。
あの日の彼のテキトウ飯に敵うかは分からないけれど、きっと同じようにいつの日か、私のテキトウ飯で、誰かの気持ちをほかほかの白米ぐらいほっこりあったかくしてあげられたら、と思っている。
ありがとうございます。下着作りに活用させていただきます🎀✨