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私が死ねなかった理由

最近何かを書く意欲も特になくまあそれはそれでいいだろうとnoteを放置しがちで。
でもみんなもそうなのかな?最近タイムラインに新しい記事があることが減ったし、好きなワードで検索をかけても、最新の記事が少なくて、新しい出会いや刺激がない。

なんというか手持ち無沙汰で...。
心を刺激される、ワクワクする言葉を綴る人に最近出会えていない。
今フォローしている人の記事はすごく好きなのだけど、新しい風を感じたくて。

で、なんでこう手持ち無沙汰に感じられるのかと色々考えてみたのだが、いや、考えるまでもなく浮かんだのは今年亡くなってしまったフォロワーと、私が一方的にフォローしていただけだけど好きだった人のこと。

この2人の記事は、似通っているわけでもなく(というかそもそも2人同士何も接点もなかった)、テイストも違うのだけれども"なんか好き"で暇さえあればよく2人の記事やツイッターに目を通していた。

1人は、きっと賢いんだろうなぁ、難しい表現を使いすぎることもなく、かといって私みたいな凡人にはなかなか思いつかないような表現が多くて、それなのにその場の情景を思い浮かべることができるくらいには臨場感を感じることができて、どうしたらこんなに素敵な文章を書くことができるのだろうかっていつも思っていたし、勝手にめちゃくちゃ尊敬していた。

賢くて文章が上手い人って"こう"なのだろうなぁって、勝手に楽しませてもらっていた。

もう1人は多分文章を書くのがすごく上手いわけでもないと思うんだけれども、私がなんとなく恥ずかしくて隠してしまうような気持ちを恥ずかしがらずに素直に表現しているところが好きだった。
例えば私は自殺企図をする時、"怖い"という感情を感じることはあるけれども、怖いと感じていることに対して恥ずかしさを覚えてしまい、本当の自分の気持ちを隠してしまう。
あたかも怖くなかったように、1ミクロンも助けて欲しいと願っていなかったように、まるでなんの後悔もなく薬を飲んだり首を吊ったりしているように振る舞ってしまう。

だから私は、そういう"私が恥ずかしく感じるような気持ち"を表現することができる人、自分とは逆の人にすごく惹かれていた。

私はnoteをダウンロードして、彼女らを見つけ出した日には、彼女らの投稿がないか何度もアプリを開いて確認し、彼女らの記事が投稿されたら何度も何度も読み返す、読み返して音読できるくらいに、紙に書き出せるくらい目に焼き付けていた。

私は彼女らのことがこれだけ好きなのに、「好きだ」と伝えるのも恥ずかしくていつも心を込めていいねを押すだけだった。


そんな彼女らの投稿は永遠には続かず、2人とも自ら命を絶ってしまった。
悲しいけれど、それは彼女たちが切望していたことで、「終止符を打ててよかったね。」などと思った。

大好きだった人たちの記事がもう2度と投稿されなくて私は退屈になり、寂しくて寂しくて仕方がないけれど、私の"寂しさ"とか"エゴ"を彼女たちの死のせいにしたくないからこの気持ちはぐっと飲み込むことにした。

ぐっと飲み込んで彼女たちの代わりになるような人に出会えるように日々インターネットを渡り歩いているけれども、代わりとなるような人には出会えるわけもなく。

人間って代わりがいるようでいなかったりするよね。

彼女たちの記事がもう2度と投稿されることがないのが確定した私は「どうして彼女たちはいなくなったのだろうか。」と漠然と考えていた。

彼女たちにあって私にないもの、それは信念のような気がした。

彼女たちのうち1人は、死んで生まれ変わったらなりたいものとか、遺作となる小説を作ったりだとか、死後の世界はきっと"こう"で私は必ず天国に行ってまた君に逢うとか、そういう信念を持っていた。
自分の心の片隅にじっと居座り続けている信念を。

もう1人の彼女のことは、勝手に見ていただけだからあまり知らないけれど、あまり知らない私にも彼女なりの信念や思いがあり、それを全うしたような気がした。

(※誤解をされたらいけないので。
彼女たちには死に対する確かな信念があったと思うが、逆に生に対しても信念があったと思うので、死んだことを肯定したり、心から良かったね、と思えるわけではないです。
致し方なかったなと思うだけで、本当は生きていて欲しかったし、生に対する信念を全うしたり夢を叶えたり、人生における及第点みたいなものを見つけ出して欲しかったなぁとずっと思っています。)


それに比べて私は死に対してあまり信念がない。死んだら天国にいっておばあちゃんや亡くなった犬や猫に逢えるとか、「若くて儚い時に死んで永遠になりたい」とか、お葬式で流して欲しい曲とか、お葬式に誰を読んで欲しいとか、死に賭ける願いとかそんなものは何もない。

なんとなく絶望してなんとなく死ねたらいいなぁと思って(いやきっとなんとなくではないんだけれども、彼女らに比べたらきっとなんとなくなんだろうなぁとは思う)、薬を致死量の2倍、3倍飲んで、結局死ねずこの世に居座っている。

だから、私に死に関する信念みたいなものがあれば、死ねていたのではないかな、と思ったりする。
本当は信念などなくても死ねるのかもしれないし、実は死んだ彼女らも信念とか特になく、死んだが故に生前の思考を他人に勝手に「信念だ!」って思われているだけなのかも知れないが。

死人に口なしとはよく言ったもので、彼女たちの最期の気持ちや死後の気持ちや言葉を聞くことができないので、何が真実なのかはわからない。

わからないけれど、なんとなく私は彼女らには信念があり、私には信念がなかった、だから死ねなかったのだ、と勝手に意味づけて死ねなかった私を救おうとしているだけなのかも知れない。

仮に私に信念があったのなら死ねたのだろうか?

私も、"死ぬ確率を"上げるために信念を作ってみた。(そういうことじゃない)。

私は基本的に、「天国も地獄も存在しない」と思っているが、死ぬために、天国は存在すると思うようにすることにした。
あと、天国に行ったら死んだおばあちゃんや友達にも死んだ友達にも会えることにするし、なんならマイケルジャクソンにショーをみせてもらおうと思っている。

お葬式だって、日本のスタイルではなく、ずっと憧れているメキシコのスタイルにしてもらおうと思うし、棺には花じゃなくて大量のミッフィーの人形を詰めてもらうことにする。

お葬式の音楽もしんみりとした感じのではなく、好きだったゲームのBGMや、マツケンサンバとかなんか明るくてふざけた感じにしてもらうことにする。

ここまで色々来てて信念を強く持てば死ねますかね?でも信念は持とうとして持つものではなく自然にできるものだと思うので、やっぱり私は死ねそうにないですね。

いつか私に、死に対する確固たる信念みたいなのが芽生えた時、それが私の魂の寿命でもあり、肉体の寿命だと思います。

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