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心の目の解像度。『良く見る』のを辞めると幸福だった。

こんにちは梅おにぎりです。

自己紹介

最近『九龍城砦』にハマっています。
今は亡き、香港に存在した住宅街です。
いわゆる治外法権のスラムなのですが、人口密度がヤバい。東京ドーム半分の敷地に5万人の人!

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ギュウギュウの建物というか街並みも面白いのですが、そこに暮らす人々の生活もとても興味深いものでした。

前置きが長くなりましたが、
今回は「生存」に必死な世界と「生存は可能」な世界では、見えてるもの、悩みの質が全然違うんだろうなと思った話です。

・「生理的欲求、安全欲求」
・世代間のズレ
・心の解像度を落としてもいい

「生理的欲求、安全欲求」

マズローの「自己実現理論」をご存知でしょうか?

Wikipediaより↓

自己実現理論(じこじつげんりろん、英: Maslow's hierarchy of needs)とは、アメリカの心理学者アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって絶えず成長する」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものである。

図にするとこうです。

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上から

* 自己実現の欲求 (Self-actualization)
* 承認(尊重)の欲求 (Esteem)
* 社会的欲求 / 所属と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)
* 安全の欲求 (Safety needs)
* 生理的欲求 (Physiological needs)

となっており、
下から順に満たして上を目指していく形になります。

この1番下の生理的欲求と下から2番目の安全の欲求って、現代日本で満たせない人はかなり少ないです。

何かしら食べられるし
どこかしらに住める
いきなり死ぬことはほとんど無い。

なので社会的欲求/所属と愛の欲求より上を求めてる人が多いと思います。

生理的欲求と安全欲求が満たせるからこそ更に高次の欲求に意識が向かう

九龍城砦はほぼ中国から海を渡って亡命してきた人達で出来ています。

生き延びることが出来た、やっとできた居場所。

衛生環境が悪くても
狭くても
やっと暮らせる。
でもそれがいつ奪われるか分からない。

安全欲求と生理的欲求が不安定な中で生きています。

私の想像ですが、そんな状況だったら
コミュ力が低いとか
可愛くないとか
月収30万なきゃとか
全然バズらないとか
当然そんなことを思うこともない生活になります。

解像度が低いカメラだと些細な汚れなど映らないような
健康に生きられる場所があればとりあえずいい
みたいな
現代、問題として考えるようなことは目に映らない世界だったのではないかと思えました。

・世代間のズレ

話を日本のことにします。

戦時下も安全欲求がメインだったのだと想像します。

すると
食べ物が次はいつ手に入るか分からないから、残したらダメ!
物が不足しているから貰える物は何でもありがたい!
ガムシャラに働いて豊かな生活をするんだ!

こういう価値観が生まれたのだと推測します。

この解像度で世界を見ると
飽食の時代でも食べ物を残すことができないかもしれないし
持ってる物が少なく見える人を気の毒に思うかもしれないし
残業も嫌な顔せずこなすのが当然のことだと受け入れるかもしれません。

あらゆる時代にその時代を見るのに丁度いい心の目の解像度があり
また時代が変わると同じ解像度では見えないものがあったりする
そのことに気づかぬままだと、
見落としがあったり、逆に見なくていいものが見えすぎて辛くなったりするのでは?と考えました。

今の時代は解像度が高すぎるように思います。

自分の顔がちょっと老けてきたのが気になる
あの人のたまに出る不勉強な発言が気になる
恋人の性格にちょっと雑なところがあるのが気になる
自分は周囲から見てつまらない人間なのではないかと気になる

おそらく低い解像度の世界ではあまり気にされないことが、今の世界ではとても見えすぎてしまって、気になって仕方がないことになり得るでしょう。

もしや、特に世代間で起こるズレはこれが原因なのでは?と思いました。

勿論個人間でも違う解像度で世界を見ているのでズレはあります。

でも現代は、生きるのに精一杯だった世界に比べればただ生きることは容易い世界だからこそ、生きるのに必要のない情報まで目立って見えすぎてしまうのではないかと思います。

細かく見ないでやってきた人、どうしても細かく見てしまう人、価値観のズレがあるのは当然ではないでしょうか。

個人的なことですが、
親と話していて感じる違和感の一つに、この解像度の違いがある気がしています。

解像度が高い方がいいとかそういうことではなく、単に性能の話です。
写るんですで撮った写真も、スマホで撮った写真も、優劣をつけるのは解像度ではありません。

粗くて良い写真もあれば、高解像度でも全く魅力の無い写真もあります。
単なるレンズの種類です。

親と自分のレンズはまるで違うから、話が噛み合わないのも仕方ないのかな〜と思うようになりました。

・心の目の解像度を落としてもいい

「今」を生きるのが辛くなったら
現代日本で体験することはあまりないですが、「命があるだけでありがたい」
というところまで、解像度を落としてみるのはどうでしょう。
つまり「承認欲求」など高次の欲求のことを良く見えなくさせるのです。

最近私は妊婦だったので、体が思うようにならず「生きてるだけでもう良いことにしよう」という境地になっていました。

今産後なので、しゃがんだり立ったりが出来るだけで感動しています。
お腹がぶつからずにデスクワークができること
何でも美味しく食べられること
難しい話もゆっくり教われば理解できること
創作活動できること
なにより
家族と一緒に穏やかに過ごせること

幸せすぎておかしくなるんじゃ?と思うくらい幸せを噛み締めることが増えました。

しかしこれも月日と共に忘れて、また色んなことを望むようになります。(4人目なのでもう既に3回繰り返してる…)

生きてるだけでいい
家族がいてくれればいい
これ以上を望みすぎることで、(例えば家事をもっとちゃんとやるとか、収入アップとか、もっと見聞や交友関係を広げたいとか)時に自分を追い詰めてしまうことがあります。
もったいない。
低い解像度だったら全部揃ってる世界なのに。

この気持ちを忘れずにいたいのもあり、今回の話をまとめました。自戒のためにも…
向上心を持つのは大切なことですが、「幸せだな〜」と感じる時間が多い方が理想的なので。


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