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「母親みたいになりたくない」という呪縛
とある精神科医の本で、「娘は母親の生き方をそのままなぞることができる」といった文章を見たことがあった。
(『子は親を救うために心の病になる』高橋和巳、筑摩書房)
これは、まったくそのとおりであると思う。
男親と息子もそうであるのかもしれないが、女親と娘というのはかなり特殊な関係だ。
母親は娘に、過去のじぶんの姿を投影する。
娘は母親に、将来のじぶんの姿を投影する。
母親は、「過去のじぶんと同じように」あるいは「過去のじぶんみたいにならないように」育ってほしいと願って娘を養育する。
一方娘は、「お母さんみたいになりたい」あるいは「お母さんみたいになりたくない」と反抗しておとなになる。
母と娘でありながら、女と女でもあるという視点。
ロールモデル、反面教師、友人、ライバル、愛と憎しみ、嫉妬と羨望……。実にさまざまな感情と思惑が絡まり合って、濃密な関係を築きあげるのが母と娘であると思う。
そして私は、「絶対に母親みたいにはなりたくない」と思ってきた人種だった。
何度か記事で書いたことがあるが、私が子どものころから、母親はまったく幸せそうに見えなかったからだ。
経済的に自立できない母親みたいにならないように、絶対に新卒で正規雇用の就職を勝ち取りたかった。
父親との関係で苦しむ母親みたいにならないように、絶対結婚なんてしない(できない)と決めていた。
私のせいで離婚できない母親みたいにならないように、子どもなんて持ちたくないと考えていた。
私の人生は私のものであるはずなのに、いつもどこかに母の姿がちらついていた。
ふとこの思いに改めて気づいたのは、昨日、夫と大喧嘩をしたからだ。
要はいまだに、私が子どもを産む覚悟ができていないという話だったのだが、その「怖さ」の根幹には母の存在があった。
もちろん、出産や育児に伴う変化そのものも怖い。
身体は否応なしに変わるし、股が裂けるようなことをしてまで産むのも怖い。
産後うつや産後クライシスだって怖いし、経済的にも時間的にも一変してしまう生活だって怖い。
だが、そうした怖さのもっと奥には、根深い別の怖さがある。
ずっと不幸そうだった、じぶんの母親みたいにはなりたくない。
子どもを産んだら、私も母親みたいに泣き暮らす生活になるんだろうか。
いつも怒り、疲れ果て、愚痴ばかり言うおばさんになってしまうのか。
結婚した環境も、夫の性格も、いまの暮らしぶりもなにもかも違うのに、それでも私の脳裏には、独り泣いていた母親の背中がちらつく。
娘という生きものは、どうしても母親の存在に囚われてしまうのだ。生まれたときから、どこかで母親の影を背負って生きている。
ここまで考えるのと同時に、「私が幸せになれない理由はこれなんだな」と思った。
「母親みたいにならないように」就職して、「母親が得た夫とは違う」やさしい夫と結婚できて、「母親とは違う環境で」子どもをつくって。
じゅうぶん恵まれ、満たされているはずなのに、私のこころはずっと不安と恐れに苛まれていた。
それは結局、私が母親の人生を生きてしまっているからだ。
そして私が、母親を通じてじぶんを否定しているからだ。
私は母親の影に囚われ、母親の人生ばかりを気にして進む道を選んできた。
司書や学芸員に興味があったのに、その気持ちにはフタをして、もっと確実で安全に就職できる道を求めた。
母親みたいになりたくないから、ずっと恋愛や結婚や、子どもを持つことを遠ざけてきた。
私の人生は「母親、母親、母親……」で、じぶんの時間を生き切れていなかったのだ。これでは満たされるはずがない。楽しいわけもない。
そのうえ、母親を拒否することは、結局母の血が流れるじぶんまでをも否定することになる。
他方では、「父親みたいになりたくない」と父すらも拒否しているから、じぶんに流れる血は全否定ということだ。
こんなの、じぶんという存在そのものを否定していることに等しい。
これではいくら「自己肯定感を高めよう」「じぶんを好きになろう」などと考えてみたって無茶である。
そもそも否定から人生が始まっているのだから、こころが満たされるはずもないのだ。
昨日、大喧嘩のあとに突然ここまで考えついた。
そうしたら「ああ……」とものすごく腑に落ちたのだ。幸せな環境にいるはずなのに、いつも怖くて不安で焦っているのはなぜなんだろう?
その答えが、すとんと胸に収まったのだった。
ハラオチしたからといって、やっぱりこびりついた母親の存在は、すぐには頭から消えてくれない。
父親のことだって許せない。
けれど、もういいんだよと声をかけたい。
もう、私はじぶんの人生を生きてもいいのだ。
(実際、つい最近子どもができちゃったりして、どんどんじぶんの人生を進んでいっているわけなのだし)
覚悟は急には備わらない。
それでも、「もういいんだ」とじぶんに声をかけることは、折々忘れないようにしていきたい。
つまるところ、それが成長へのいちばんの近道であると思えるから。
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