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生に向き合う(UM 北川原慧林)

 UMメンバーの北川原慧林です。宜しくお願いいたします。

 このエッセイのテーマは「ユーム授業スタートからの振り返り・気づき」また、「来年以降、どんなことを心がけてデザイナーとして成長するか?」とのことなのですが、結論から申し上げますと、ここまでで自分が得た一番の気づきとは、デザインは「生」に向き合う行為だというです。この点について少しばかり綴らせて頂いたので、しばしお付き合い下さいませ。


1、ここで言う「生」とは?

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 恥ずかしながら、私の今までの人生の大テーマを、目の前にある「生」からどこまで目を逸らして生きていけるか、というものに設定しておりました。
 以前の研究分野は美術史・医学史だったのですが、そこでは研究対象はほぼほぼモノ(絵画作品や特定のテクスト)でした。仮に人物に言及しないといけなくても、平安末期の人物は私と同じ時間を共有する生身の人間ではないので、「生」と向き合っているとは到底言い難い状況下に身を置いていたのです。つまり、以前の私は生きている他者について全く思いを巡らせず日々を淡々と生きていたのです。
 本来、研究というものは、現代社会の「ために」、今生きている人たちの「ために」、人類が今後も紡いでいくであろう知識の蓄積に資する「ために」するべきなのに、なんてことでしょう。若気の至りでの一言では許されない、当時の自分が滑稽で仕方がありません。


2、「生」と「生」を繋ぐものを忘れていた私

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 最初に、「デザインとは「生」に向き合う事」だと述べましたが、今までの私が具体的にどのように「生」と向き合う事を放棄していたかについてお話しいたします。
 言葉とは、もとはというと人と人、「生」と「生」の間のコミュニケーションのために生み出された道具のはずです。しかし、研究者を目指していた頃の自分が綴っていたのは、地に足がついていない、具体的に何を云わんとしているのか不明瞭な抽象的な言葉ばかりでした。実際に自分がキーボードで打っている単語の羅列が実生活にどう活かされるか、いかに社会に貢献しうるかも思念せずに、概念と概念をぶつけ合いこねくりまわし、それをあたかも世紀の大発見のように誇張し、難解な文体で出来る限りの見栄を張る毎日でした。もちろん、これは誰にも読まれない、忘れ去られる論文です。
 受け手や聞き手がいない言葉はもはや意味をなさない——我武者羅に紙飛行機を折って、真っ暗なトンネルの中に向かって飛ばしているようなものです。白い紙飛行機はすうーっと、弧を描き滑空した後、ぱたりと力なく地面に落ちます。コミュニケーションを前提としていない虚しい言葉とは、そのようなものです。


3、起死回生を図りデザイナーになるためには

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 では、このように「生」もとい「人」に向き合おうとしてこなかった私が、デザイナーになるために今からすべきことはなんでしょうか。それは、「生きた言葉」、「地に足がついた思想」を発信することにつきます。
 実際の社会(これは「生」を持った「人」が集団となり共に構築し続ける社会)に通用する言葉や思想、そしてそれらを視覚的情報に落とし込んだグラフィックを作ることを常に念頭に置かなければならないな、と今は感じております。
 それをするためには、まずは「人」と話す、「人」とコミュニケーションを取ることが不可欠だ、と痛感しております。それを通して、今までは空虚だった自分の言葉や思想たちに「生」を吹き込んで、「人」と「人」が無数の網目のように繋がっているこの現代社会に、デザイナーとして参加したいです。


さいごに

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 自分が今、「生きている」という事、周りの人と「生きている」感覚を共有できている事は本当に素晴らしい事だな、と思っております。帰り道、ふと空に目をやると、いつもより気持ち夕日が美しくうつりました。

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