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感想"仮面ライダーセイバー"という物語 二章

本当はリバイスが放送スタートする前に書き終えるつもりだったのだが間に合わなったことをここに懺悔する

小説家

さて、一章で愚痴のようなことを書いてしまったが、私は仮面ライダーセイバーが好きだ。
まず、最初にあげる点として小説家:神山飛羽真という部分に焦点が当たったエピソードはどれも良いということだ。全ての回で小説家としての飛羽真のスキルが物語に反映されたわけではなかったが、小説家としてのスキルが活かされた時のエピソードにはどれも光るものがあった。

特に中盤のプリミティブドラゴン登場からエレメンタルプリミティブドラゴンへの流れはここ数年でもぶっちぎりで好きな流れで、失ったものはとり返すことはできないが、続きの物語を創造することで孤独な少年(プリミティブドラゴン)を救うというのは小説家という飛羽真にしか出来ないことだ。そして最終回その飛羽真に救われたプリミティブドラゴンが絶体絶命の飛羽真を救った時はとてもつもない滾りがあった。

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テレビ朝日公式HPより

そしてスーパーヒーロー戦記。本作では自分たちが「仮面ライダーセイバー」という物語の登場人物であるということを知ってしまうという『平成ジェネレーションズForever』とも相似したテレビシリーズのアナザーとも解釈できるストーリーが展開される。飛羽真は冒頭『平和を守るために仮面ライダーとして戦っているのに、小説家という神である自分は登場人物を辛い目にあわせている』という事実にスランプに陥る。
そして劇中では自身がセイバーの物語であることを知り、物語の登場人物から解放された争いのない現実の世界という白昼夢のような世界が展開される。(※1)

だが「(たとえ戦いばかりの世界であっても、)物語の登場人物が物語の世界から逃げてはいけない」と自身と石ノ森章太郎(演:鈴木福くんさん)を鼓舞し紙とペンを手に取り、戦いの世界へ舞い戻る。
単純なお祭り映画としての側面からメタ的な要素も包括していき春映画を下地に『仮面ライダージオウ ‪Over Quartzer‬』と『平ジェネForever』とのキメラのような本作は仮面ライダーとスーパー戦隊という2つの歴史の未来を見据えてこれからヒーローを創っていくという製作側の気概を感じるとともに、小説家:神山飛羽真が主役の今年で無ければできない作品だろう、これが例えば常磐ソウゴが主役であったとしてこれほどまでの説得力はあっただろうかと思い返す。

そして、終盤のストリウスとのやりとり。
全知全能の書に自分の産み出した詩の全てが記され絶望したストリウスは、同じく創作家である飛羽真にとっては映し鏡のような存在。だが、世界の終わりまで全て決められていることまで突きつけられても飛羽真はこう返す。

たしかに俺たちはちっぽけな存在かもしれない。でも本の中にはこの宇宙よりも広い無限の可能性が広がっている。人は本を読み、その物語の中で自由になり幸せになれる。
小さいころ、俺は1人で本ばかり読んでいた。その中で色んな冒険をし、色んなものに出会った。そして本は俺に友達をくれた。ルナと賢人。ルナは俺が書く物語が大好きだと言った。俺は嬉しくてルナを喜ばせたくて、笑顔にしたくてたくさん物語を創った。そしてかけがえのない仲間にも会えた。
たとえ俺の物語が何かに与えられたものだとしても、そんなのはどうだっていい!誰かが描いた物語が、想いが、それを読んだ人の中で新しい物語として生き続ける。だから俺は物語を書く。だから俺は本が大好きなんだ。
~46話「さようなら私の英雄」より~

例え全知全能の書によってその人が抱く感情すら書かれていたことであったとしても物語を読み感動するという体験は尊いことだという発言は、前章で書いた仮面ライダーセイバーに対して私が期待していた「物語を書く物語」としての一つの答えをくれたと思ってる。
本に限らず物語を読んだ(観た)人は大なり小なりその物語を受け止めるということになる。
それは新しい知識を取り込むだけでない。
物語の続きを考察したり、読んだ人と感想を言い合い発展したり。
ひょっとしたら最初に触れてみた時はあまり良いとは思えなかったが、何年か後に再び手に取ってみたら感想が変わったり。
物語に触れてやったことのないことをはじめてみたり。
その物語が仮面ライダーなら、それを観て役者を志すといったこともあるだろう。

物語を自分の中に取り込み、生きていく。その影響は人の数、そして存在する物語の数だけある。「本には世界を変える力がある。人は物語を創る力を持っている」というのは飛羽真の第一章で語ったセリフだ。

ストリウスは飛羽真たちに破れ新たな物語が生まれた事に一縷の救いを抱くも世界の終わりともに消滅していく。だが、飛羽真(小説家)の闘いを観てきた芽依ちゃん(編集者)の呼びかけにより集まった人々(読者)の物語への想いが新たな世界を産んだ。飛羽真が語るように最終的に世界を救ったのはこの世界に存在する人たちだった
飛羽真は英雄ではなく「小説家として」新たなワンダーワールドを創生した。OPと同じく「完」と書かれた本を開き「物語の始まり」を作ったのだ。憑き物が落ちたように新たなワンダーワールドで微笑むストリウスたちメギドとバハト、初代マスターロゴス、ルナ、タッセルの姿は眩しい。

だからこそ、だからこそ、飛羽真とストリウスに因縁の積み重ねがもっと欲しかったところではあるのだが。(※2)

10人の剣士

次に私が好きな部分は10人もの仮面ライダーがいながら持て余しが少なく、最後まで全員に見せ場があったことだ。
バスター、スラッシュ、剣斬、サーベラ、デュランダルは最後まで仮面ライダーとしての強化はなかった。しかし最後まで格落ちすることが無く最終戦でも賢神という強敵にも勝ち星をあげた。それは各ライダーが戦闘スタイルに違いがあり没個性にならない(バスターなら大剣による重い一撃、スラッシュなら銃と剣という2つのモードの取り回し、剣斬なら二刀流による身軽なアクション、デュランダルやサーベラなら体を煙にする、時間を操る攻守一体のトリッキーな戦術など)という部分もあるのだが、本作において仮面ライダーとしての一つの大きな指針として「剣(に込められた気持ち)の重さ」がある。

中盤のソードオブロゴスを離れた飛羽真の真意を見極めるため、尾上、大秦寺と飛羽真が一対一で剣を交えるシーン。大秦寺は飛羽真に「ワンダーライドブックに頼っているうちはお前の剣は響かない」ことを突き付ける。実際に飛羽真は彼らと剣を交え、尾上、大秦寺らの剣の重さを通して彼らが剣に込めた想いを受け止める。彼らの想いの強さを感じとっていくことで飛羽真が剣士としても成長していく。ただ序盤がチームであることを推していたため、カリバーを打倒すという山を越えたところで、劇中にズオスにまで「仲間割れとは笑わせるな」と言われてしまう展開にオイオイと思ったことも事実なのだが。

それは組織という家族と飛羽真という仲間との間の板挟みで苦悩する倫太郎、あくなき強さを求める蓮と剣を交えることで紡がれていき、誤った道を辿ってしまったがそれでも強い絶望という重さを持ったバハトと続いていき、最終的に「退屈な自分の世界を満たすため」という酷く身勝手な理由のために剣を振るマスターロゴス=仮面ライダーソロモンの剣の軽さという部分で結実させていく流れは積み重ねに他ならないだろう。それが最強フォーム、クロスセイバーへ変身する聖剣、刃王剣十聖刃を誕生させることのカタルシス。
このアイテムは玩具的な側面から見ても良いアイテムだと思っていて、聖剣ソードライバーというベルトのギミック上最強フォームはエンブレム付け替えか?など最初から予想がされていたが既存のWRBと新たな聖剣というのは唸った

そして神代兄弟は別行動を取りつつも互いの利のために手を取り、最後の決戦へ向かう。序盤は戦隊っぽいと言われていたセイバーの仮面ライダーが10人勢ぞろいし、最終決戦でついに全員の変身のカットインを観せる。これほど盛り上がることがあろうか

蓮、そしてデザスト

あえて別枠で書くが、忘れてはいけないのが蓮、そして彼に付随してデザスト。この2人には仮面ライダーの複雑さの一端を垣間見た気持ちになる。というのも、デザストはカリバーを闇討ちで倒し自身のWRBを手に入れ自由を手にして以降、思い出したように現れては戦闘に乱入する。かと思えばストーリーに目立って参加しない代わりにTwitterで「#デザさんぽ」なるなぞの行動をとり始める

一方の蓮は賢人という信頼していた兄貴分を失い、飛羽真はソードオブロゴスを離反した。賢人の仇の言葉を信じる飛羽真のへ反感を覚える蓮は、剣士としての使命より賢人への気持ちを優先し飛羽真を攻撃するというお世辞にも褒められない行動を取りだす。そして賢人が帰ってきたと分かると彼について行こうとするが追い返され、あてのない放浪の中でデザストと行動を共にするようになる。敢えて強い言葉を使うと"本筋から弾き出された者同士"である2人が出会った。
それでコンビとして物語の本筋に積極的に関与してくるかと思いきや、そんなことは無く彼らは彼らで独自の行動をする。
そしてデザストはストリウスが気まぐれで創った意味など初めからなかったメギドであるとストリウスの口から語られた。そして43話、デザストは自分の存在意義をかけて蓮と剣を交えデザストは消滅した。上堀内監督の照明やスモークを巧みに使った演出、挿入歌もあいまって実に"エモ"なシーンとなっている。

だがこのシーンを観るたびに2人にそれほどのストーリー上の積み上げがあったのか?あえて省いたというより、そもそも描く尺が無かっただけでは?という難色と同時に、"物語"がテーマのセイバーであるがゆえに2人は本筋から弾かれた者同士という文脈によるバフが発生するというどこまでがライブ感なのか、果たして全て計算なのかの判断しかねるシーンであることに仮面ライダーという作品の奇怪さをひしひしと感じるのだ。
ただ存在意義のないと言われたデザストが蓮と出会い、蓮がデザストのカラミティストライクを最終決戦で使い活路を開く(賢神は全ての聖剣の剣技の始祖で剣士たちの技は通用しない→つまりデザストの技は効く)というのは、とても良い落としどころではあると思う。

他にもユーリという剣=仮面ライダーという武器そのものがライダーであるという面白い試みや、神代兄妹が仲間になってからも軟化の具合がほどよかったことや、いろいろ深堀りすればするほど身勝手なマスターロゴスが逆に輝いて見えるとか、そもそも推しの富加宮賢人の話をしていないなど他にも書きたいことはあるのだが、まぁいいでしょう。

総括

私にとってここまで熱中し、齧り付いた仮面ライダーは久々だった。その中で「仮面ライダーという作品を1年間かけて追うこと」ということについて色々考えることも多い日々だった。セイバーは好きだが、完璧な作品だとは言えない。ウイルスがあったから仕方ないで見逃すことの出来ない点もある。この文の中でもウーンとなる部分はままあることを書いたし、ゲストもあまり登場させられず、ロケ地も限られただろうし、作品内外含めてどこかの歴史の管理者が言っていたようにあまりに凸凹で石ころだらけだ。

だがそれでも私が仮面ライダーセイバーが好きなのはきっと清々しいほどのハッピーエンドで迎えられたこと、そして神山飛羽真たちならそれが出来ると信じていたからだろう。

あの終わり方、物語が進んでいけたのは、神山飛羽真だったからできたんじゃないかなって思います。
トウマは全部救うって言う。
簡単なことじゃないけど、簡単に言っているように見える。
そう言い続けることで、みんなが本当にトウマなら、って思ってくれる、
最後になってその信頼関係が生まれたんじゃないかな、と思って嬉しかった。

キャストブログ:内藤秀一郎より

セイバーはバカ正直で、愚直なまでに真っすぐで、裏がなかった。そのバカ正直さが私は好きだった。これは中盤の仲間割れ、特にプリミティブドラゴンが暴走する危険をはらんだ飛羽真と倫太郎の口論や、全ての聖剣を封印しようとする賢人と飛羽真の口論などで思ったことだが、平成ライダーでなら「お前に何が分かる」で済みそうなものをどんどん思っていることを全部言ってしまう。「そこまであけすけに言う!?」となるほどに。その言葉選びのジワジワくる面白さもセイバーの面白さなのだが。

だが、作品を観ていくうちにこの人達は意地が悪く言っているわけではなく、あくまで善性から言っているのだということに気づいた。
隠し事とか出来ない不器用なタイプなのだな…と思った。思っていることを全部言う。だから本音をぶつけあって衝突もするが分かりあった時、本当の絆が生まれる。
こと仮面ライダーという作品は善悪が表裏一体で性善説というよりは性悪説な部分も多いだろう。特にここ1年はリアルでも人間の嫌な部分が現れることも多かったのではないか。前年のゼロワンは人間の悪意にフォーカスが当たっていて、思うことも多い中、性善説のごとくセイバーは物語を綴り続ける。倫太郎の決め台詞に「僕は僕を絶対に諦めない」というのがあったが、セイバーもまた人間の善性を諦めなかったのではないか。

最初はギャグだとあまり深く考えなかったシーンがある。封印から甦り、人間が信じられなくなっていたバハトに対し、1000年のうちに人間は良い意味で変わったんだぞと芽依ちゃんをユーリが紹介するシーンだ。「インツタってのがあってこういうので簡単にみんなと繋がれるの…」と。
いやSNSってそんな良い面ばかりじゃ……。そんなの見せたらバハトは余計絶望するだろ。とSNSでは突っ込まれていたが、最後に世界中に想いを届ける手段として、芽依ちゃんがSNSを使っていたのは唸らざるを得なかった。あまりにも純粋……。
思えばタッセル達最初の5人が全知全能の書を探したのは欲望のためではなく、飢えや貧困を救う人類のよりよい発展という善なるためであった。

飛羽真は「世界を救う」と言い続ける。簡単に言うと私は思うが視聴者である私は飛羽真と口論は出来ない。その代り作品と口論を交わした。作中の描写だけでなく、作品の外についても。
時には自分の把握できない事態に頭痛がする事もあったが、そうやって不器用で、絶対に諦めない仮面ライダーセイバーという作品と対話していく中で倫太郎が、賢人が、ルナが「飛羽真なら……きっと」と思うようになったように「セイバーならきっと……」と信じられるようになったのかもしれない。
逆説的だが、最終章で物語への想いを語る人々がセイバーの世界を救ったのは、視聴者が「セイバーならきっと……」と信じたからだと、思いたい。

「信じたほうへ動かせるさ未来」
ALMIGHTY~仮面の約束 feat.川上洋平 より

OPにもある言葉だがこんなに単純で、それでいてこんなにも勇気がもらえる言葉も無いだろう。私にとって仮面ライダーセイバーもまた忘れられない物語になったのだ。

セイバーは10月にようやくお客さんと共にイベントを行えるファイナルステージや、8年後を舞台にした不穏漂うVシネが控えている。
それだけでなく後作品での客演や小説などもある。そのたびに私は人間を信じ、世界の為に戦った剣士たちの物語のことを思い出すのだろう。そんな彼らの物語を胸に生きていくことが私の物語となる。ひとまずはまたセイバーの新たなページが綴られるれるの待つとしよう。

※1:この世界はスーパーヒーロー戦記の副音声コメンタリーによると、全てワンカットで撮影されており10分のシーンを撮る為に約12時間撮影しており、本が床に落ちる向きが間違っただけで撮りなおした。という役者3人もスタッフも尋常ではないほど張り詰めており、そういう点も現実なのか夢なのかという異様な空間の演出に一役買っている

※2:と思う一方でストリウス役の古屋呂敏さんのキャストブログを読むとストリウスが因縁どころか、ストーリーへ積極的な関与がなかったのは、セイバーのストーリーを読者としてどこか俯瞰的な目線で観ていた(実際ストリウスは2000年前の登場人物であり、43話のタッセルの言葉通り自分たちの手を離れた物語の登場人物と考えると納得がいく)というのは解釈としてはとても面白い。

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