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手を引いて(ショートショート)

日曜の朝はとても寒かった。
公園まで散歩したいという87歳の母を連れて行くことにした。玄関で母の前に回りそろりとドアを開ける。
外に出ると、吐く息が白かった。
肩から掛けた母のグレーのストールを両手でつまんで少し引き上げ、外気が入らないようにポンポンとストールで母のうなじを隠してやった。

ガァーガァー
母が顔を上げ、動かせる右手で何かを指さした。
「ほら」
私もその方向を見上げると、お隣の上原さんの家のベランダの手すりに真っ黒で小さなカラスが一羽止まっていた。

私は60歳になり、離婚して会社も退職した。父も3年前に亡くなり、今では実家に戻って脳梗塞で左半身麻痺となった母のリハビリを手伝っている。偶然にも母子家庭である隣家の上原さんも夏までは90歳を超える病弱な母親を息子さんが介護していた。すると母親が熱中症にかかってしまい、息子さんは会社を休んで看病していた。息子さんによると、快方に向かっていたと聞いていた矢先、今度はその息子さんが脳卒中で倒れた。
息子さんのお姉さんが嫁ぎ先から急遽実家に戻り、母親を残して一足先に入院した弟を見舞いながら、次いで母親も別の病院に入院させた。上原のお姉さんは誰もいなくなった実家を大掃除して嫁ぎ先へ戻っていった。
上原さん親子は別々の病院に入院したまま半年が経とうとしていた。
幼いころ、私より3歳上の上原のお兄さんとはよく野球をして遊んだものだった。

ガァーガァー
また、上原さんのベランダにいるカラスが鳴いた。
私はそろそろ歩く母の隣で一緒に歩を運ぶ。母がまたなにかを見つけた。
「あっ、お豆がいっぱい」
「えっ、お豆?」
母の見ている前方の地面には、肌色の豆がたくさん散らばっていた。そこは保育園に通う女の子のいる、はす向かいの家の大きな窓の下だった。
「きのうは節分ね。紗季ちゃん豆まきしたんだ。あのカラス、このお豆を狙っているのかしら。そうそう、あなたがまだ小さいころウチでも豆まきやったわね。あなた、お父さんのかぶっている鬼のお面に思いっきりお豆投げてたわ」
「そうだっけ・・・あっ、思い出した。おやじは鬼のお面のまま上原さんの家の窓のところまで行ったら、中から上原のお兄ちゃんが『鬼はそと!』って豆を投げてたっけ」
「そうそう、自分の息子が投げるより痛かったって、お父さん言ってたわ」
「上原のおばちゃんとお姉ちゃんも声出して笑ってたなあ」
私は思い出し笑いをしながら、ゆっくり母と歩調を合わせた。

ガァーガァー
先ほどのカラスがわれわれを追い越して、目の前の電線に止まった。
私たちは大通りに出て、公園へ向かった。

一週間が経過した。
日曜午前、きょうも母の散歩につきあい、玄関を出る。
すると、向こうから女性がやってきた。
「あら、お姉ちゃん?」
母がつぶやいた。上原のお姉ちゃんだった。
「あっ、おばちゃん、おはようございます。じつは母が亡くなりました。昨日お昼に、容態急変したって連絡受けて病院に行ったら、その夜に息を引き取りました」
「えっ・・・」
「母はおばちゃんにお世話になったと・・・また一緒にぶどう狩りに行きたかったって・・・」
青白い顔をした上原のお姉ちゃんは健気にも涙をこらえているようにみえた。
「私も・・・行きたかった・・・。元気になって戻ってくるはずと・・・」
私は母の背中に手をまわした。
上原のお姉ちゃんは口元へハンカチを持っていった。
「じつはね、おばちゃん・・・。弟は・・・先週の日曜早朝にあの世に旅立ちました」
上原のお姉ちゃんは声を振り絞るように発した。
「えっ、そうなの・・・」
母はハンカチを取り出し、目を覆った。
「おばちゃん、母と弟が倒れた時はいろいろとお世話になりました。私が遠くにいるもんだからなにもできなくて、おばちゃんに助けてもらって・・・」
「いや、なにもしてやれなくてね・・・」
「ううん、おばちゃんに頼りっぱなしですみませんでした」
「お姉ちゃんは立派だね。一人でなにもかもやって。立派だよ」
「おばちゃん・・・」
上原のお姉ちゃんはハンカチを口元から目にやり、嗚咽を漏らした。
母はお姉ちゃんの背中に右手をまわした。
「そういえば先週の日曜朝ね、玄関を出たら、お宅のベランダにカラスが止まってて・・・。私たちが大通りに向かっていたら追いかけてきたの。虫の知らせだね、きっと。弟さんが私に知らせに来たんだね」
上原のお姉ちゃんはハンカチで目を覆いながらうつむいた。
母がお姉ちゃんの背中をさする。
「きっと、お姉ちゃんにこれ以上迷惑をかけられないから、弟さんがお母さんを天国に連れて行ったのね」
お姉ちゃんの両肩が震えていた。
私はなにも声をかけてやれなかった。
向かいの壁を見ると、半透明のゴミ袋が目に入った。その中には赤い鬼のお面がこちらを向いていた。
私は空を見上げた。


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