DSC_2590_虫取りの少女

虫を捕る少女 ~いのち~(エッセイ)

セミの鳴き声は長くぼくにまとわりついた。
まるで目の前をF1の車が猛スピードで走り去ったように余韻が残る。
先週夕方、この公園にやってきたときは頭が痛くなるほどの大合唱団で攻めてきたセミの鳴き声がどこか哀し気で名残惜しそうだった。
代わりに先週までは聞こえなかったコオロギたちが合唱している。

だだっ広い公園の大きな芝生の端にあるベンチにぼくは腰掛けた。
西日がまぶしい。夕陽が公園の向こうの木と木が作るV字に沈もうとしている。
頭のうしろからセミとコオロギの鳴き声が聞こえ、目の前の芝生の上には赤とんぼがイワシのように同じ方向に泳いでいる。空色をしたシオカラトンボは、探さないと見つからないほどに減っていた。

向こうからピンクのシャツを着た少女がやってきた。赤い帽子をかぶり半ズボンの少女は虫かごと緑色の虫捕り網を両手にもっている。
めがねをかけ、幼い顔をした少女は中学生でもおかしくないほど背が高いうえ、少女がひとりで虫を捕りにくるのは、なにかアンバランスな気がした。
虫の研究でもしているのかな。
虫が好きな女の子だっているさ。
ぼくは、最近見かけるようになった黒や水色のランドセルを背負った小学1年生の女の子や、野球やサッカーで男の子に交じって活躍する女の子を思い出した。
となりのベンチに虫かごを置き、少女は網を片手にきょろきょろと獲物を物色しはじめた。
野球のバットを振るように網を振り回し、赤とんぼを捕えようとしている。
空を泳ぐ赤とんぼにとって、少女ごときにそうやすやすと捕まるわけにはいかない。
ベンチに座るぼくは人差し指を空に向かって突き出した。
「赤とんぼ、たくさん飛んでるね。とんぼ獲りにきたの?」
「うん。飼ってるカエルに食べさせるの」
赤とんぼが好きで捕りにきたのではないことに、ぼくはおどろいた。
話す言葉はやはり幼い。小学4年生くらいだろうか。
「赤とんぼ、食べるの?」
「うん。食べる」
カエルが赤とんぼを餌にしているところを眺めているこの少女の顔を思い浮かべた。
少女は赤い帽子に手をかけた。
「おじさん、赤とんぼっていうとんぼはいないんだよ。ほんとうはナツアカネとかアキアカネ」
「へー。アキアカネは聞いたことある。詳しいんだね」
少女は自信たっぷりにうなずいた。
「あと、おじさん。指にとんぼはとまらないよ」
「そう?」
少女はうしろの木に獲物がいないか探し始めた。
図鑑で調べたのか、ググって調べたのかわからないが、なんでも知っている少女にギャフンと言わせたくなった。
辛抱強く人差し指を立てていると、その近くで泳ぎをピタッと止めてはぐるっと周回する一匹の赤とんぼに気づいた。
これはとまるかも。
やがて期待した通りにこの赤とんぼがぼくの指にとまった。指先がくすぐったい。
「あー! とまった」
いつのまにかこちらを見ていた少女は赤とんぼがおどろかないように小声でささやいた。
少女の鉄の心を揺さぶることに成功した。どうだと言わんばかりにおじさんは下半身だけをゆっくり動かし、足を組んだ。
右の視界に少女が映る。少女が前傾姿勢になる。片手で持っていた緑の網を両手に持ちかえた。その姿は竹やりを持った少女に思えた。かわいい目が獲物を獲る目に変わる。
おいおい、君に捕らせるためにとんぼをとまらせたわけじゃないんだよ。
少女が抜き足差し足でこちらに近寄ってくる。目はとんぼにくぎ付けだった。網を振りかぶる。指にとまっているとんぼが羽を下に降ろし、警戒した。
少女が網をぼくの指めがけて振り下ろした瞬間、とんぼは飛び去った。
「あっ!」
指を捕まえた少女は悪びれる様子もなく、真剣な表情で網を外した。
ぼくは内心ほっとしていたが、残念そうなそぶりで言った。
「赤とんぼ逃げちゃったな」
「赤とんぼじゃなくてアキアカネ。でも、おじさん、すごいね。アキアカネは安心してたんだよ」
君はぼくを利用して、その安心した赤とんぼを捕ろうとしてたんだよ。
「いいものみせてあげよう」
ぼくはスマホを取り出し、写真を探した。先日このベンチで読書しているときに、赤とんぼが偶然、本にとまったのだ。その写真を見つけ、ぼくは少女に宝物を見せるようにスマホを向けた。
隣に少女が座る。
「わー、いいな。この写真いいなー」
「先週はここ、まだシオカラトンボが多かったんだ。そのなかに赤とんぼ・・・あっ、アキアカネがたまに飛んでいて、おじさんが読んでいた本にたまたまとまったんだ」
「すごーい。アキアカネはおじさんを友達と思ってるのかも」
少女ははじめて屈託のない笑顔をした。

少女はうしろでコオロギを一匹捕まえ、隣のベンチに置いてある虫かごに大事そうにしまった。虫かごの中には緑色の小さなかまきりも動いていた。ぼくは、この少女が「いただきます」をしっかり言って、ごはんを食べる姿を思い浮かべた。
今度はぼくのうしろに回り込み、少女は音も立てずに木に近寄っていった。
そこにはシオカラトンボが2匹とまっていた。
少女は戦闘態勢に入る。網が届く位置で辛抱強く、その時を待った。
ぼくはふと、少女の足首に黒いものを発見した。蚊だ。蚊が少女の足の血を吸っている。
少女は動くのか、動かないのか。
かゆみに我慢していたのか、じっとシオカラトンボを凝視していたが、たまらなくなったのか、少女は足首を振って、手でパチンとやった。
シオカラトンボが2匹とも逃げた。
少女が悔しそうに言う。
「蚊にくわれた。とんぼは難しい。おにいちゃんが使ってた網もボロボロだし」
公園に5時を告げる音楽が流れる。
少女はベンチに置いてあった虫かごを持ち、ぼくのほうを振り向いた。
「おかあさんがうるさいから帰んなくちゃ。じゃね!」
「じゃね!」
少女は歩いていった。
ぼくは足首がかゆくなるのを感じた。
パチン!
足首をたたいた。

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