見出し画像

黒い芯(エッセイ)

プシュー、プシュー
アルコール消毒のポンプを押し込んで、噴射する液体を手のひらと指先で受け止めた。
スーパーで買い物を終え、入口に回り込んで再びアルコール消毒を使う。
指の付け根まで交差してこすり合わせると、アルコールの匂いに包まれた。
手をこねくり回して、乾くのを待つ。
自分の指を眺めながら、「ピアニストの指のようね」と女性に触られた過去を思い出す。
すぐに、スマホで隣の『dislike』(ひどいね)ボタンを誤って押してしまう現実が甘い過去を消し去った。
ふと、左手中指の腹を見る。
まるでほくろが皮膚の中に埋まったようにわずかに黒い点がある。
これは子どものころ、指に鉛筆の芯が刺さり、そのまま埋まった状態で皮膚がふさがったものだ。
この指の黒い芯をみつめると、小学校に入学するころを思い出す。


ぼくは保育園を卒園し、小学校の入学式を待ちわびていた。
トッポジージョの絵が描かれた青い筆箱がお気に入りだった。そこへ母から教わりながら、ボンナイフででこぼこに削ったHBの鉛筆を5本そろえた。文房具屋に行くと、手でハンドルをくるくる回す手動式鉛筆削り器はさまざまな種類が置かれていた。さらに高価なものは、鉛筆を差し込むだけの電動鉛筆削り器もあった。しかし、そんな立派な鉛筆削りを買ってもらえるはずもなく、消しゴムほどの大きさで鉛筆の先を入れて鉛筆自身をくるくる回すだけのおもちゃみたいな簡易鉛筆削りさえ買ってもらえなかった。それでもボンナイフを不器用に使い、自分で削った鉛筆を眺めながら小学1年生の生活を思い浮かべた。

入学式の数日前、保育園で仲良しだった伊勢君のうちに遊びに呼ばれた。伊勢君は団子屋『伊勢屋』の次男坊だ。
2階の彼の部屋に通されると、伊勢君が無念そうな表情になった。
「ようちゃんの学校に行きたかったなあ」
「うん」
伊勢君は身体が小さく、保育園でいじめっ子からいじめられると、かならずぼくに助けを求めてきた。伊勢君はぼくを慕ってくれていたし、ぼくは伊勢君を子分のようにかわいがった。
しかしぼくたちは、保育園は一緒だったが学区域の関係で小学校は別々になった。伊勢君はぼくと離れるのが不安のようだ。
伊勢君はさっそく自慢のランドセルからノートと筆箱を取り出し見せてくれた。
国語、算数、理科、社会と書かれたそれぞれのノートはジャポニカ学習帳でそろえられていた。中をめくると、罫線が引かれただけの真っ白なままのページがまばゆかった。
今度は伊勢君が筆箱を開けてくれた。
中には7~8本の長い鉛筆が頭の高さをそろえて並んでいた。その鉛筆の芯はまるで針の先のように鋭くきれいに削られていた。
「これで削るとすぐ削れるんだ」
伊勢君が机の端を指さした、そこにはぼくが憧れていたホワイトの電動鉛筆削り器が置かれていた。
机の上の鉛筆立てから一本鉛筆を取り出し、伊勢君が電動鉛筆削り器に差し込んだ。
ウィーン!
取り出すと芯は痛そうなくらい尖っていた。
すげえ、と思ったがそれをおくびにも出さずにぼくは黙っていた。
「お団子もらってくるね」
伊勢君は鉛筆を鉛筆立てに戻し、部屋を出て行く。
お父さんとお母さんは1階のお店でお団子を売っているので忙しいようだ。
伊勢君はなかなか2階に上がってこなかった。
ぼくはおもむろに筆箱のカバーを開け、一番端の鉛筆を取り出し、右手に握る。
次にジャポニカ学習帳の最初のページを開いて、いたずら書きをした。
ほかのノートの最初のページも尖った黒い芯をぶつけた。
真っ白な紙を汚したかった。
伊勢君はまだ上がってこない。
ぼくは鉛筆をホワイトの電動鉛筆削り器に入れてみた。
ウィーン!
手がブルブルと震える。電気の振動をはじめて味わった。
鉛筆を押し込んでいると、電動は止まらない。どんどん鉛筆が削られてゆく。
ぼくはずっと電動を感じていたかった。
机の上には30cmの竹製ものさし。
透明なプラスチックの三角定規と分度器。
24色のクレパス。

ドンドンドン!
伊勢君が階段を上り始めたようだ。
見つかるかもしれない。
ぼくは急いで鉛筆を電動鉛筆削り器から抜き取った。鉛筆はずいぶん短くなっていた。
筆箱を開け、左手の指の腹で鉛筆の頭を押し込んですばやくもとに戻す。
痛っ!
鉛筆の芯が折れ、ぼくの左手の中指に刺さった。あわてて反対の手で芯を抜こうとする。抜こうとすればするほど、芯は皮膚に食い込み、まったく触ることができなくなる。そこから血があふれてきた。
袖で血をぬぐい、芯を取り出すことをあきらめた。
一本だけ半分くらいの高さになった芯のない鉛筆をそのままにして筆箱のカバーを閉じ、ノートとともにランドセルに仕舞った。
なんとか伊勢君に見つからなかった。


スーパーの前で芯の埋まった中指を眺めながら、昔遊びに行った伊勢屋に行ってみようと思った。昔を懐かしみながら長い距離を歩く。
伊勢屋に着くと、背の小さくなったおばあちゃんが接客してくれた。
面影から伊勢君のお母さんに違いないと思った。
「あんこのお団子と辛いお団子を2本ずつください」
「はいよ」
おばあちゃんが奥のテーブルで背を丸めながら紙に包んでくれ、持ってきてくれた。
「伊勢君はお元気ですか?」
そういえば、伊勢君という名前が本名なのかお店の名前から付けられたあだ名だったのかわからなかったが、ぶっきらぼうに訊いてみた。
「えっ」
「ぼくは保育園の同級生で『ようちゃん』と呼ばれていました」
「えっ・・・、ああ、ああ、ようちゃんかね」
「覚えてくれていましたか」
「うんうん、息子が毎日『ようちゃん、ようちゃん』って言ってたもんでね」
「そうですか。息子さん、お元気ですか」
「ええ、今新潟にいるの。やだ、ようちゃんがお店に来てくれたなんて伝えたら息子も喜ぶんじゃないかしら。それにしてもよく息子のことを覚えていてくれましたねえ」
「はい。ぼくは息子さんのことをよく思い出すんです。毎日一緒に遊びましたから」
そっと、自分の指先をみつめた。


#エッセイ #コラム #umaveg #卒業 #入学 #鉛筆の芯 #指 #お団子 #筆箱 #懺悔

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?