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買えなかったノート

私はタオルを持ち、グラスをくるくる回しながら拭いていた。
10席ほどのカウンターの奥の片隅にスーツを着た客がひとり、読んでいた文庫本をうつぶせにカウンターに置き、生ビールのジョッキを傾けた。最近やってきた新顔の彼は、きょうで二度目の訪問だった。
私はここ新宿の片隅で長年バーを営んでいるが、店をたたもうか迷っていた。新型コロナウィルスの第三波で東京都から営業自粛要請が出て、私は何度となく東京都に掛け合ってみたものの、杓子定規に要請されるだけだった。よく考えてみれば、少ないお客を相手に営業するのも休業するのと同じくらい赤字が増えるだけだ。ならばやはり潮時かと・・・
カウンターの客が空のジョッキを置いた。
「マスター、マッカランをロックで。あと、北欧チーズも」
「はい」
客は私のうしろの棚に目をやる。
「ところで、マスター。先日来た時より棚のボトルが少なくなっているような・・・」
「はい、もうボトルキープはお断りしているんです。名刺をいただいたお客様には連絡先に電話して残ったボトルを送付するか処分するかを聞いています」
「そう」
彼はうつぶせにしておいた文庫本をスーツのポケットにしまいこんだ。
文庫本の置いてあったところへ私はグラスを置いた。
「はい、お待たせしました」
カランカラン
彼は手に持ったグラスを丸く揺らした。
「この辺は休業するお店もあるんですか」
私は冷蔵庫から北欧チーズを取り出し、ナイフでスライスする。
「休業もありますが、閉店するお店もありますね。家賃が高いですから」
「補助金や、助成金では十分ではない?」
「はい、間に合わないです」
北欧チーズを客の前に出す。客はチーズをひとつ爪楊枝に差して口に運ぶ。
「閉店は辛いですね」
客はカランカランと氷の音をさせてマッカランのグラスに口をつけた。

私は何も答えなかった。
東京都のせいにしてみても始まらない。これも運命、自業自得かもしれないと思った。グラスを拭きながら思い出す。
私は何度か転職を繰り返し今に至るが、大学を卒業すると東京郊外の小学校で教職に就いた。その3年目にPTA委員会で学校の校門前にある文房具店『山田堂』での児童の下校後の無駄遣いが問題となり、『山田堂』ではもう買わないようにと決定した。その決定を児童会で議題にあげ、学校全体で無駄遣いをしないようにした。
そのときの児童会の指導教員が私だった。
私はすぐ会長、副会長2人、書記2人、役員6人の11人の子どもたちから賛成を得ようと多数決を取り、10人が賛成してくれた。しかし、5年生の書記ひとりが反対した。
私は「無駄遣いしないように学校一丸となって取り組もうとしているのに、どうして君は反対するんだ」と問い詰めると、彼は「だって、山田堂がツブれちゃうから」と答えた。
私を含め児童会全体が笑いの渦に包まれたが、発言した当の本人はキョトンとしていた。
そこで私は「君は山田堂で何を買うんだい」と聞いたら「ノート!」とまっさきに答えた。私は「ノートなら駅前の商店街まで歩いて行けばそこの文房具屋さんでも買えるだろ。山田堂だって簡単にツブれやしないから安心しなさい」と言った。
彼はうつむいたまま何も言わなかった。
私は多数決で決定させて、それ以降、各学級に反映させて無駄遣いをさせないよう徹底させた。PTAの子どもたちへの監視もきびしかった。
しかし山田堂は3年後に潰れた。
彼は卒業して中学生になっていたが、街で会っても彼に合わせる顔がなかった。
私はなんで彼の気持ちを汲んでやれなかったのかと・・・。せめて店舗を特定せずにただの『文房具店』としておけばよかったと後悔した。
私は山田堂の閉店セールに伺い、当時の担任だったクラスの子どもたちに配るため売れ残っているノートを全部買うつもりだった。
お店に入ると、もう子どもたちでいっぱい。店の奥にいた店主のおばあちゃんに「売れ残ったノート全部ください」と言ったら、「あなたは先生ですか。先生に売るノートはひとつもありません。売り切れた後にノートを買いに来た子どもの悲しい顔を見たくありませんので」と追い返された。
私は何もできなかった。
山田堂の建物が壊されるのを見届けて、翌年、私は教員を辞めた。

カランカラン
客が最後の一滴を飲み干す。北欧チーズの皿も空になっていた。
「マスター、おいしかったのでマッカランのボトルを1本キープしてすべてのお勘定お願いします」
「すみません。先ほども言いましたが、もうボトルキープはお断りしているんです」
私は頭を下げた。
頭を上げると、客は首を横に振る。
「またすぐに来ますから、キープしてください」
「いや、そう言われましても・・・。それなら、お名刺を頂戴できますか。もし何かありましたら、ご連絡先にお電話させていただきますので」
客はスーツの内側に片手を忍ばせようとすると、すぐ手を引っ込めた。今度はその手を横に振って断った。
「名刺はない。だけどまたすぐ来るから」
「それですと、困ります。お客様に迷惑をおかけしたくないので」
客は眉間にしわを寄せながら、渋々とスーツの内ポケットから黒い名刺入れを取り出す。
名刺入れの中から一枚名刺を取り出し差し出す。
差し出された名刺に手を添えようとする。
名刺の左横には緑色のイチョウの葉のロゴが記されていた。
私はハッとして名刺をもらう手を引っ込めた。
頭を上げて客を見ると、目は伏せがちだった。
私は意を決し、ふたたび名刺に両手を添えて頭を下げる。
「お心遣い、ありがとうございます」
そう告げると、私は伝票に『マッカランボトル1本』と書き足した。


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