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2021/8/31(火)雑多な読書記録(Critical Ecologies、『アメリカを作った思想』、『評伝小室直樹 上』、『真木悠介の誕生』)

 今月は非常勤の採点業務、分担翻訳×2の追い込み、研究会での文献報告、翻訳の勉強会での報告などあり、相変わらず作業はぼちぼちやっているのかもしれないが、なんらかの認識利得を得た気がしない月だった。某○○○ンの2回目を打ちに行ったが、打った翌日と翌々日にヘロヘロになりながら採点をしていた(合計すると270人そこそこなので、それほど多いわけでもないかもしれないが)。

 環境・地域・都市関連の文献については今月はほぼ読めておらず、代わりに息抜きで読んだ書籍のみ、簡単にメモしておきたい。

・Andrew Biro ed, 2011, Critical Ecologies: The Frankfurt School and Contemporary Environmental Crises, University of Toronto Press.

 とりあえず通読(ななめ読み)。印象に残ったこととしては、アドルノの美学論やミメーシスの議論などを用いながら、人間と非人間の関係、人間と「自然」の関係を考えるような試みが多くなされているということ。もちろん、マルクーゼやホルクハイマーの議論も参照されてはいるが、印象としてはアドルノの比重が大きい気がした。(そもそも「自然」という概念に依拠すると、いろいろな混乱を生むのでは、という気が段々としてくるのではあるが。「自然と人間」のような枠組みでものを考えることの限界については改めて考えたい。)

 なぜ批判理論に基づいて環境問題を考える必要があるのか。どのような良いことがあるのか。批判理論以外の「批判的エコロジー」(例えば、ディープエコロジーなど)との差を考えなければならない。さらに、エコロジー的近代化のような議論との差分も……。このように考えると、批判理論だけでなく、周辺の議論もいろいろと追わなくてはならない。

 ヨナス、ポスト・ヒューマニズム、コンドルセなど、思想(史)的にも、社会理論的にも、幅広く相互参照して考えるための手がかりがいろいろと詰まった本。

・ジェニファー・ラトナー=ローゼンハーゲン著・入江哲朗訳,2021,『アメリカを作った思想――五〇〇年の歴史』筑摩書房.(原書2019年)

 コンパクトにまとまったアメリカ思想史。参照される資料・史料の種類は比較的多岐にわたる。「本書は、思想史のより伝統的なソース(哲学、政治理論、社会理論、文学、文化批評の著作)に依拠しがちではあるけれども、これらが一部にすぎないことを示したいとも思っている。」(pp.21-2)いわゆる古典というカノン解釈に終わっているわけではない(ひとりの思想家の著作をじくじく読むようなタイプの本ではない)。

 すんなり読めたわけでもなく、なんと言ったらいいか、いくつかのキーとなるトピックを念頭に、各章間のつながりを考えると良いのかもしれない。例えば「聖書」「啓蒙」「先住民」「奴隷制度」「ダーウィニズム」等……のような繰り返しあらわれるトピックが色々出てくると思う(個人的には特に前半あたりは歴史の流れもぼんやりしているので、ちゃんと読むなら世界史というかアメリカ史の本を片手に読んだ方が良いのかもしれない……)。

 一点だけ、第2章「アメリカと環大西洋啓蒙」で興味深かった箇所について。

(中略)ここから窺えるのは、人種的抑圧は18世紀後半の知的探究の主題であるのみならず、その物質的基盤を提供してもいるということである。人種的抑圧と知的生産とのこうした繋がりは、初期アメリカの大学およびカレッジにおいてこそ、ほかのどこよりも顕著であった。奴隷どいう労働力を抱えながら自由讃歌をしたためていたジェファソンとまったく同様に、初期アメリカの諸大学は啓蒙的人種学の拠点であったばかりでなく、人種的抑圧の受益者でもあった。アメリカのあらゆるカレッジは、例外なく、アメリカ先住民が所有権を放棄させられた土地に建てられた。(pp.86-7)

 奴隷商人からの寄付によって当時の多くの大学の運営が成り立っているという話もあった……。1960年代のスチューデント・パワーは、上記のような歴史にも踏み込んだ批判?をしているのだろうか、というのが少し気になってきた。

・村上篤直,2018,『評伝小室直樹 上――学問と酒と猫を愛した過激な天才』ミネルヴァ書房.
・佐藤健二,2020,『真木悠介の誕生――人間解放の比較=歴史社会学』弘文堂.

 以下はTwitterの記録より。積んでいた『真木悠介の誕生』と『評伝小室直樹 上』を読む。前者については見田、真木の「テクスト空間」とされるものをフィールドワークするに足る土地勘が自分にそもそも無かったということに気付かされた(単に見田・真木の書いたものをちゃんと読んでいないというだけの話)。

 以下、方法論についてメモ。本書は見田の評伝のようにみえるが、そうではない。テクスト空間のフィールドワークという方法のあり方にこだわってきた著者の営みをも、ひとつのテクスト空間として歩き回ることができるのなら、いつかその方法を体得できればなあ、ということを考えてみたりする。

 私の本の行間に浮かびあがるのは、むしろこのテクスト空間と向かいあってきた読者の学びであり、社会学者としての私が受容した方法的態度の教えである。
 「個人」の達成や個性の研究であるというより、テクスト空間のフィールドワークであり、ひとつのエスノグラフィーであるというほうが、適切であろう。その中心にあるのは、テクスト空間を歩きまわる、読み手の読書経験である。それは同時に、私自身がなぞったひとつの社会学の理念であり、想像力の方法である。
 だから、「見田宗介=真木悠介」の、広大で起伏に富むテクスト空間そのものの拡がりを旅してもらうことこそが、この本の本願であり本領なのかもしれない。自分で訪ねて、自分で味わってほしいとも思う。そのためにこそ、地図の役割を果たす書誌篇がある。拙速の集成だが、志を共有するだれかにとってはさらなる充実の出発点となるだろう。
 その地図の未完成も含めて、テクスト空間は読者が訪れるかぎり、生きているのである。(pp.10-1)

 後者についてはTHE評伝と言って良いのかもしれない。留学時代、東大時代もさることながら、(さかのぼって)京大時代の平泉澄との関わりになぜか圧倒させられた。また、非凡であることは確かだとしても、小室自身のある種の限界がどこにあるのか、という点も考えさせられるところがあった。

うすうす自覚していたことであるが、小室の数学の力は、数学的なセンス、あるいは天才的なひらめきに基づくものではなかった。非凡な記憶力に頼る、記憶による数学なのだ。(p.126)

 小室だけでなく、小室を取り巻く人々も、おそらく錚々たるメンツなのだろうと思う……。ある種のインテリ群像劇が好きな人(いるのか?)は読んでておもしろいと思う。

 さらに、いわゆる社会問題を考える際に、小室のようなアプローチがどの程度妥当なのかどうか。当時、小室ゼミに参加していた長谷川公一先生のくだりでは、

(注:長谷川は)また、研究仲間の舩橋晴俊らと新幹線公害問題の研究を開始し、「もっと具体的な社会紛争や社会問題を分析したい」と思うようになっていた。「経済学における一般均衡理論のようなシンプルなものでは社会問題は説明できない」と思い始めていたのである。(p.529)

とあった。この点は、小室と吉田民人の理論に対する考え方の違いもあるようだ。

 図らずも今回の4冊は、思想史を描くにはどうすれば良いのかという点でいろいろ示唆を与えてくれるのではないかという気がする。たいしたことは言えないが、ごくシンプルに言うなら、広がりを大事にしようということ(古典以外の(日常的に使われていたような書物含め)史料を見ること・古典を扱うとしても、別の古典との関係を探ること・テクスト空間の広がりを整備するためにできることを考える(年譜・全集の編集方針に鋭敏になる等)・評伝を書くために証言を集めてまわる)。

 9月こそは自分の研究を進めたい。9月末から非常勤再開だと思っていたら、9月中旬からだったことに今更気づいたが……。

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