自由・自立・自律
戦後民主主義
戦後我々は戦前のことを全く深く反省することなく、
その全ての"罪悪"を軍部の暴走と、天皇主義のカルト性に押し付け、それに反対することが自由であり、自立であり、正義であると考えてきた。
その薄っぺらい世界観を人々は戦後民主主義と読んできた。
勿論、この言葉に俺程の蔑視を込めてこの言葉が生み出されたとは思わない。
だがこの戦後民主主義にはGHQと日本の大衆の浅はかな歴史認識が根底にある。
戦後日本は言論、表現の自由を被占領国として奪われてきた。
GHQ占領の影響
ラジオ「真相はこうだ」では日本の軍や天皇のおかしさを事実に反することを基準に、アメリカへの敵対心を削ぐ為にドイツで悪がナチスであるように、日本も彼等が悪の主導者で、国民は被害者だと言うフィクションを、まことしやかに語ることで、国民を簡単に洗脳した。
また政治家や軍人に対する裁きも、日本国民の手によることは許されず、極東国際軍事裁判所と言う、戦勝国が作った敗戦国を裁く為だけの不平等、不公正な裁判所によって事後法かつ不当な裁判によって様々な人が、しかし日本人(当時国民の朝鮮人、台湾人含む)だけが裁かれた。
アメリカは、本当は自分達が日本に戦争を開始するよう仕掛けておきながら、二度と戦いたくないからと戦争を放棄させる為に汎ゆる措置を講じてきた。
それはアメリカへの敵対心を削ぐことと、国民が自立することだ。
戦後民主主義とはアメリカの都合によりアメリカの為に生み出された価値観と言えよう。
戦後民主主義と日本国民
そうとは知らず、軍部や政治家、右翼思想さえ抑えておけば戦争は起きない、と言うカルト思想はこの国を席巻した。また個人主義と言う考え方も、それ等へのアンチテーゼでしかない為、ただのへそ曲がりこそが個人主義だと勘違いされた。へそ曲がりこそが自由主義だと勘違いされた。そしてその勘違いを人々に全体主義的に強制した。倒錯甚だしい限りだ。
自由の秩序
こう言う歪んだ歴史観を持てば、自由とは国家からの自由こそ正義とされ、自由意思で国家に尽くすことを否定せねばならなくなる。だが我々が自由を享受できるのは、国家が国家として機能しているからに過ぎない。それこそ国家が機能しており、経済や文化が外敵から、また内部の犯罪等、崩壊から守られることによって初めて守れるような人為的なものだ。我々は国家に対して一定程度の貢献を代償とすることで初めて自由を享受できる。
国家は国民の為に尽くさねばならないし、同じく国民も国家の為に尽くさねばならない(この相互の信頼が必要)。
当たり前の常識さえあればここに帰結せざるを得ない。
となると、やはり我々にとって自由を行使する上で必要なのは、どのような自由を求めるべきであるか(内発的)、また自由はどこまで許容されるのか(外部抑圧)、と言う2つの視点から自由の適切な位置を模索する哲学だろう。
結局、自由を語る上で大切なのはそれを肯定する為の哲学の議論なのだ。
自由だから何をやってもいい、自由はけしからんから許してはならない、そんな暴論は、自由と言う観点から否定こそしないが、自由と言うものが我々に齎し得るポテンシャルを引き出す議論にはならない。
これはテーマがかなり壮大なのでここで論じるには無理があるし、是非本で勉強した方がいいと思うので、本を紹介して終わる。
自立できなければ自由にはなれない
そしてその自由と言う人々の不断の努力の結果として享受し得る価値は、結局は自ら守り、勝ち取らねばならないと言うことも忘れてはならない。
コロナ禍以降の日本ならこのことを理解するのはある意味容易だろう(コロナ脳にはできまい)。
営業の自由、移動の自由、学問の自由、職業選択の自由、言論の自由とありとあらゆる自由が人間により、社会により制限された。
個人やその業界の自立する為の意思や後ろ盾がなければいとも容易くこの自由は絵に描いた餅となる。
自由とは誰かに与えられるものでも、必然的に保障されるものでもない。
本当に人為的に戦って守っていかないと直ぐになくなるものなのだ。
自律ある自由
だが自由である為に戦い続けていては、却って他人の自由を狭めることになりかねない。自らの自由を確保する為には逆に他者の自由を認めることも大切なことだ。互いが互いを尊重し、その自由について適度に調整することが互いの自由を最大限に確保することとなる。これは単に互いの利益調整だけを意味するのではない。自由を確保する為の正義となる。自分が確保すべき自由の領域を最大限確保しながら、他者の自由を確保すると言う自己を律する正義感こそ、崇高な自律だと言えるだろう。これは単なる八方美人、阿諛追従とは違う、自他の自由を調整する能力のことだ。
これらを踏まえて、冒頭に貼ったリンクの内容である「不敬罪」について考えてみよう。
天皇と日本国憲法
我々国民の享受している自由とは、自然発生した当然の権利ではないことは分かった。しかし、憲法において国家が守ると規定した価値観ではある。
そして不敬罪を論じる上で重要なのは、皇族はその国民に該当しないと言うことだ。
そして戦後民主主義が大切にしてきた憲法についても考えねばならない。
よく護憲派は憲法を守れとは言うが天皇制にはかなり否定的だ。それは恐らく彼等が憲法を読んだことがないからそう思うのだ。
そもそも憲法の第一章は、天皇であり、第一条は
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
だ。
国家国民を統合するにはどうしても中心となる存在(人や地位や理念)が必要だ。
これなしに自由を唱えるのはただ無秩序を求めるのと変わらない。
その秩序の根幹が、日本の歴史の原点であり、常に日本の中心であった天皇なのだ。
だからこそ国民は敗戦後も陛下(昭和天皇)の行幸を喜んだし、また国民がバラバラになって新たな内戦が起こると言うようなこともなかったのだ。これがなければ戦後体制の主導権を巡り、内戦が行われることも考えられたし、GHQも、安定した統治を行えなかっただろう。無論、それに彼等は気付いたから、天皇は利用できると考えて、この制度を残し、また憲法の条文の最初に記したのだ。
この点、やはり外部と言うのもあってGHQの目と頭は優れていた。
日本の民主主義
ただGHQも統治する上で日本に悪が存在しなければ自分達が占領する正当性を保てない。そこで天皇は悪くはないが、軍人等がそれを利用したと言う考え方が重要になってくる。それを戦後日本人は払拭し、国民の努力によって民主主義を手に入れ、それに連合国が力を貸したと言う筋書きが求められた。
だが実際には日本の選挙は明治時代から行われていたし、昭和には普通選挙も行われていた。翼賛体制は異常時限定の措置だったし、そもそもその体制を望んだのも何なら国民とも言えよう。
そうとも知らず、我々は戦後、このアメリカによって一週間程度で書き上げられた憲法を未だにありがたく民主主義の聖典として崇めているのだ。
鰯の頭も信心からと言うが、まさにそのレベルの話だ。
国民と皇族の人権
そしてその頂き物の憲法の要として我々は長らく、基本的人権の尊重と言うものを教わってきた。
(第三章)第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
(そもそもこの要とされてきたことが第三章まで出てこないことを考えよう)
しかしこの保障の対象は、国民である。
天皇及び皇族は国民ではない。
何故なら天皇及び皇族には職業の自由を含め、基本的人権の保障がないからだ。
そこで改めて考えてみよう。何故我々人間には人権が必要とされているのかを。それは国家の構成員としての力を発揮する上でこのようなゆとりを持つことに意味があること、そしてその自由が社会の豊かさを維持する上で有用であること、また、確保しなければ、人間としての尊厳を保つことが困難になるからだろう。
つまり、決して「憲法にそう書いてあるから」必要なのではなく、「必要だから憲法に定めてある」のだ。
では何故天皇及び皇族にはそれが認められないのか。
それは立法府及び主権者の無知と無責任と怠慢故に他ならない。
公正・正義
戦前はこうではなかった。皇室の人権を守るルールとして不敬罪が存在したからだ。国民が事実に基づかない不当なデマを流したりして国家の象徴を侮辱するような行為は法律によって禁止されていた。
そうすることによって初めて、皇族方の人権と、そして日本国の象徴の権威が守られる。
もし国民が憲法に書いてあるからと言う理由で人権を保障すべきものと考えたり、国家が国民に対してのみ保障すべきものと考えたりしているのなら、それは結局国家の品格は著しく低いものと見做されるべきだろう。
何故なら憲法に書いてあるから守ると言うなら第一章を守らないことと整合性が取れなくなるし、国家が国民に対してやれと言っているのなら、主権者としての意識も皆無だからだ。
こんな不誠実な国民が皇室に対して求める正義に、果たして公正さは存在し得るのか。
これは尊皇と言う観点から考えても、立憲主義と言う観点から考えても、はたまた人道主義と言う観点から考えても、唾棄すべきことだろう。
皇室なき日本に未来はあるのか
自由や権利と言う、比較的リベラル、左翼が好みそうな観点から皇室を眺めてきたが、果たして今の皇族の人権を軽視するような国において、天皇制をなくせば平等で自由な国が誕生すると信じられる者はどれほどいるだろうか。
実はリベラルな視点から見ても最も重要でかけがえのない存在なのが天皇であり、天皇を守る人々の思想なのだ。
特に戦後(戦前からそうなのだが便宜上)の皇室の国民との距離を見てきても、これを廃止すれば日本がよくなるなんて思える奴には社会に対する意見をする資格すらないだろう。
勿論、世の中には王室のない国の方が遥かに多い。だがそんな国は常に政情が不安定で大変だ。あっても大変なのに、無くしてより良くなると考える方が凄い。
自由や権利は、人間の不断の努力によって守られる。日本の皇族のような素晴らしい方々の権利に無頓着な国に、どうして皇室を無くして素晴らしい国が作れようか。
そして自由と言うものへの哲学を放棄した人々に一体何ができるのだろうか。
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