うっせえうっせえうっせえわ
流行っているらしいと言うのはnoteで知った。彼は中々深くPVなんかにも踏み込んで評論していて見事だった。
そしてこの記事も読んだ。
だが未だに音楽は聴いていないし、歌詞すら見ていない。
その上でこの現象についてつらつら書いてみる。
まずヤフコメの反応を見てみよう。
内容は理解できるし、そういう理不尽もあるけど、
私は個人的には好きではない。
どんな曲なんかな?と思ってyoutube見てみたけど、個人的には2度目が聴きたくなる曲ではなかったな。一回でお腹いっぱい。
聴いてる側が、まるでサンドバッグになってるような気分になった。
個人的には思うも歌うのも自由だけど人に向けて発する台詞じゃないと思うな。裏にどんな理屈や感情があろうと、相手を傷つける言葉だ。
皆善良で凡庸な畜群なんだなとしみじみ。
この手の人等はどんな人生を歩んできたのかと興味が湧く。
虐められてきたのかな?
それとも何事もなく平凡に暮らしてこれたのかな?
寧ろ虐めてきたのかな?
俺はこの現象を見ていて、この曲に肯定的な人に対して行為を抱いている。
何故ならこの曲や現象が放つ"熱"をきっかけに、考えようとし、よりその思いを適切に届けたいと言う熱意があるからだ。そこには自分の美学への真摯さが見受けられる。
体制に対する鬱屈した不満、ルサンチマンともまた一線を画すように思う。
寧ろそのルサンチマンに浸って弱者の奴隷道徳を根拠もなく押し付けようとする凡庸さに対する決別だと思えるからだ。
彼等なら、自分が正しいと思うなら、多数を相手にしても己の信念を説く語彙と熱意と真摯さを持っていると言う希望が湧く。
そこにあるのは表面的な社会との拒絶ではなく、社会ってものを捉え直し、こうあるべきだと言う姿勢の提示であり、その熱意の伝導だ。彼等こそ社会をより豊かにしたいと言う熱と言葉を持っている。
逆に否定的な奴等はどうだ?表面上は他人を傷つけたくないみたいなことを言っているが、ただ自分が傷つきたくないだけではないか?
だからこの曲が持つ社会観、世界観に恐怖を感じ、思考を、また曲が作る世界観とのコミュニケーションを拒絶する。
彼等は善良で凡庸では有り得ても、社会を担う主体にはなれない。
ただ自分達が平和に暮せれば、他は何も望まない。
それが彼等ではないか?
ではそんな平和主義者が多数を占める社会とは平和な社会になり得るか?
当然有り得ない。
彼等は自己を差し出すことはしない。
自分の利益が大切だ。
人々は社会に貢献すべきと口では言うが、
その貢献を実践する主体は自分以外の人間でありながら、
その恩恵を受ける権利は自分にもあると非対称性な要求をする。
個々人がそんなもんだから、有事の際には簡単に機能不全に陥る。
誰も犠牲にならない社会を夢見、誰も火中の栗を拾わない社会は、
簡単に全滅するだろう。
コロナはそんな平和主義者の欺瞞を白日の下に晒した。
彼等はコロナ死者には感情移入できても、
自殺者には興味も湧かない。
彼等は善意に基づいた、優しい、丁寧で美しい言葉を利用して、
世の経済的に困窮する人々に対し
死ね
死ぬ為の条件は整えてあるから
と言っているのだ。
一方、俺は口汚い言葉を使って、より多くの人々が公正に生きる機会を奪うなと言っている。
果たして、本当にうっせえのはどちらだろうか。
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