スペシャリストとゼネラリスト

1.専門家、専門化

世の中、学問が一種の職業となり、目的が他者との差別化になってくると、自然とニッチな方向に向かわざるを得なくなる。

また差別化とは言っても矢張りどの分野も花形となるジャンルは存在するから、そこへの人気は衰えないだろう。

するとどうなるか。新型コロナのように、医療研究者達の関心の低い病が流行りだすと、その手の「専門家」が出番とばかりに顔を出すようになる。

特定の問題に専門家が出てくるのは当然だろう。

餅は餅屋。日本の常識だから。

2.メディア

また一方、メディアは人々の関心のありそうな情報を集め、流すことで利益を得る。

主要ターゲットの関心こそ金のなる木だ。

それは高齢者であり、テーマは「健康、老後の楽しみ、金」だ。

特に重要なのは健康であり、メディアがコロナに飛びつくのは必然と言えるだろう。

更にメディアのセオリーは、不安は煽ることにある。

煽ることで関心が高まる。不安であれば意識はそこに集中され、簡単に入れ食い現象が起きる。

彼等は主要ターゲットの関心のある情報を流す専門家、スペシャリストだ。

3.大衆

そして1.で述べたように、様々な学問が研究され、専門化すると共に、大衆は得るべき知識が逆に分からなくなってしまった。だが人は基本的に堕落してはいるがそれでも、善良でありたい、己の思う正しい道を歩みたいと思うもので、真面目に世間の声を聞く。何が正しいか分からないからこそ、皆が正しいと信じていると認識可能なものは、正義であると思いこんでしまう。

しかもその正義は、戦前の日本は悪であり、宗教は悪であり、科学的な我々現代市民(決して科学的な思考を意味するのではなく、カテゴライズする際に自分を都合よくそうしただけ)こそ正義であり善であるとの偏見が基礎としてある為、必然的に価値観が定まらない、と言う前提の上にある。

だから懐疑主義に陥るのだ。

4.ゼネラリズム

さて、上記、オルテガ的な話をした上で、

本題に入る。

この記事の主張の妥当性をどのように考えるべきか、と言う観点だ。

1.専門家、専門化と言う問題を掘り下げれば、専門的な知識はその分野だけに限ればそれなりに正しい可能性は高いが、それが他にどのような影響を与えるかと言う観察をする上では心許ない。

これは例えば人体で考えるなら、心臓研究の専門家に、大腸がんの治療や手術等の話を聞くようなものであり、

専門家として矜持のある者なら、まず自分は専門家ではないと断るし、それでも意見を求められるのなら、専門家ではないが、もし答えるとするなら、と答えるべきものだ。

だが現実は違う。教育や経済、財政にまで踏み込んで語ってしまう者は甚だ多い。

しかもなかなかの無知さで平然と軽視する有様。

それは2.で触れたように煽れるからそうしているだけで、同時に3.か求めているからこうなっているのだ。

結局、専門化が齎す問題を全く考えられていないと言うことだ。

これは「専門家の役割」と、そもそも「政治や社会の目的」を見失うから陥る陥穽だ。

例えるならゴルフのクラブ選びとでも言おうか。専門家はゴルフクラブだ。それぞれの距離や障害物の状況において適切なパフォーマンスを発揮するよう、設計されたものと考えるべきだ。

そしてプレイヤーは政治、国民である。

飛距離がでるからとPAR3でドライバーを出すのは馬鹿だろう。

またドライバーばかり何本も集めたり、アイアンしか用意しない、パターがない!なんてのはプレー以前の問題だ。

だが今社会が求めてるのはそんなプレーだ。

彼等はルールが分かっていないからひたすらパターで行けと言っているのだ。池もパターで超えろと言っているのだ。スコアなんかより、OBを恐れている。ハザードからどれだけ距離があるかに一喜一憂しているし、何ならカップすら恣意的に移そうとしている。

しかしそんなものはゴルフではない。

同様に新規陽性者数に一喜一憂し、その医療体制や経済、文化、財政まで無視するのは政治や社会の目的ではない。

寧ろ逆であり、全体の機能を維持する為に、どこにどんなリソースを割くのかを考え、実施するのが政治、社会だ。

つまりそれはある程度多岐にわたる専門分野の知識も踏まえた上でのリソースの管理の話であり、また法律の話であり、憲法等の話である。

だから言ってしまえば今のコロナ対策は憲法に違反する自粛要請を中途半端な立法を経て行い、人材や予算の管理も恣意的でデタラメなものであり、目標すら定まっていないと言う有様であり、更には専門分野の知識すらデタラメときては、敗北当然の戦でしかない。

孫子の言う

彼を知り、己を知らば百戦殆うからず

彼を知らず、己を知らば一勝一負す

彼を知らず、己を知らざれば戦う毎に殆うし

だ。

ここまでの前提(長い)を踏まえ、冒頭の記事に入る。

「自粛要請」から「過料」は本当に効果があるのか、行動経済学者に聞く


まず出だし、タイトルから終わっている。

行動経済学者に聞く前に自粛そのものの効果を適切に評価しなければならない。

緊急事態宣言とは本来、医療リソースの逼迫に耐える為に一時的に、一時的に国民の行動を制限する取り決めでなければならない。

だからまず議論されるべきはリソース確保でなければならないが、それをせず、指定感染症2類相当にした時点で全ての過ちが始まる。

しかも自由を制限しながら補償をしないと言うのは国民を人とみなさない北朝鮮や中国のような国と変わらない。

更にその間違った前提に立ちながら、それを広める為にどうすべきかと行動経済学者様にお伺い立てると言うのは、

水飲み禁止でうさぎ跳びによるトレーニングを皆がする為にはどうすべきかと問うようなもので、ナンセンスの極みでしかない。

話を進めよう。

ここに図示した3つのフレーズは、佐々木さんが大竹教授らとの共同研究で、数カ月にわたっておよそ4200人の参加者を対象に、感染予防について調査したときに用いたものである。これらのフレーズのなかで、あなた自身が感染予防の意識を強く持つのはどれだろうか。


3つとは、

アプローチのしかたとして掲げた、

Aあなた自身の命が守れます
B身近な人の命を守れます
C身近な人の命を危険にさらします

を指すが、これは結局、行動経済学と言う服を着せた精神論でしかない。

しかも経済破綻や家庭関係その他を理由に失われた命は含まれない。

寧ろそれ等の命を積極的に奪いに行くのがこの3つの選択肢のベースにある自粛強要だ。

そんな致命的な問題をスルーして行動経済学だなんて言ってるのは馬鹿の極みでしかない。

「飲食業界の方たちの苦境は私もよく伺っていますし、頑張ってほしいし応援したいと思っています。その上で敢えて経済学的な見方を申し上げると、過料の設定による効果は期待できると私は考えています」

"分かっていない奴の「分かってます」"程腹立つものも少ない。

応援したいと言ったその口で唾を吐きかけれるような人間は最低だろう。

せめて、「それでもしかし、全体の利益としてこれだけの犠牲は致し方ないし、その為の手当もする」と言う言葉でもあれば、そしてその発言に尤もな妥当性があればいいのだが、そんなものは見当たらない。

要するに、

飲食店は潰れても仕方がない。それより自分の記事が公に出て金とステータスが手に入る方が大切


と言うことだ。


「まずこの点については、刑事罰が検討されていたときに日本公衆衛生学会と日本疫学会から共同声明が出されました。そこでは過去のわが国の歴史を照らし合わせて、感染者への差別を助長しかねないことや、入院を避けるために検査結果を隠したり、検査そのものを忌避したりする可能性があることが指摘されています。この点については私も同意します」

ハンセン病の問題のことだろうが、全体の趣旨として、到底同意したと思える言質はどこにもない。形だけ、口先だけのパフォーマンスでしかない。

寧ろ上記の文章の直後は

「一方で、こういう措置が待っているということ自体、感染リスクのある行為を避けさせる効果も期待できます。一種のアナウンス効果ですね。とはいえ先ほどの声明文の指摘もあり、ジレンマのあるところです。また、国民の行動変容だけに頼らない施策をもっと充実させるべきではないか、という気持ちもあります」

心の中では純粋にやりたがっている。過剰な人権侵害を。

勿論これには欧米と言う自由主義のはずなのに私権制限をやってる先進国と言う「前例」があるからそうなっているだけだろうが。

そして繰り返しの批判として、行動変容には大きな効果はない。あるなら米英はとっくに収束してるし、スウェーデンと増減の波形が異なる筈だが、目立った変わりなんてない。

結局は若者を中心とした体力のある人々の集団免疫が達成できるまで、ウイルスは広がると言う話なのだ。

だから緊急事態宣言がリソースのピークを下げたり遅らせる為の措置としては適切と言えても、コロナ撲滅には意味がないのだ。

これは河川の洪水のピークを遅らせたり、水位を下げる為に設けられたダムの話と同じだ。

ダムは決して洪水を無くす設備ではない。河川の水位をできる限り下げ、また越水する時間を遅らせて、避難の時間を確保させる為のものだ。

つまり結局、コロナ対策のゴールは集団免疫しかない。ワクチンに期待するのもいいが、それも効果は長続きしない。

これまでの汎ゆる感染症と同じく、継続的に現れては集団免疫で収束し、また変異して現れて、、、を繰り返すだけだ。

その当たり前の前提を無視して行動経済学(笑)でやれることは、空襲に竹槍で備えるようなものでしかない。

と言ってもこの記事はそんなことは想定もしていないので、ボケたまま話は医療体制強化やワクチンへの期待に話は進む。


「『基本的には接種しようと思っているが、今すぐに接種しなくてもいいかな』と考えて接種を先延ばしするような人を、どのように実行まで導いていくか。ここには、やはり呼びかけの工夫が必要で、行動経済学が貢献できるところだと思っています」

結局、行動経済学と言う考え方をどのように活かすか、と言うのが本来の学問だろう。

俺なら、如何に自然と経済、社会と言うものをありのままに捉えて、より社会が健全であるような状態を作るか、と言う大前提を考えて、それに従って説得を行う。本立ちて道生ず。しっかりとした総合的な計画があるからこそ道がその必要性に応じて自然に生じるのだ。

彼等は先に道だけを作り、そこに行動経済学(笑)を用いて交通量を上げるのかと言う本末転倒した議論をしているに過ぎない。

だから専門家が総合的な判断をしようとしている点については警戒して見なければならないのだ。

専門家、スペシャリストとはその道は詳しいかも知れないが、他については我々と変わらないか、場合によっては劣っていることもある。

そこを勘案して見なければ、専門家の誤謬を受け入れてしまうことになる。


ワクチンが行き渡るまで、また将来の新しい感染症に向けては、自粛要請や規制とは違う、人々の行動変容に頼らない施策の充実が必要だと思っています。昨夏ごろには医療提供体制の拡充についていろんな研究者から政策提言がなされていたんですが、残念ながら動きが鈍く、今冬には間に合いませんでした。

結局、医療逼迫が何なのかを理解していないから、こんな抽象的な話になる。

必要なのは指定感染症2類相当から5類への格下げであり、

その為の政治のコントロールだ。

そして政治家がそんな大それた仕事をできないのは、自分達に胆が座っていないからであり、それを支える世論がないからだ。

本質を理解できない行動経済学(笑)では政治の行動は制御できない。

行動経済学(笑)なんてめくらましで何かを達成したいと言うのは、己の研究の実験がしたいだけだろう。

そんな私的な遊びに付き合う暇はない。

より多くの人が、問題が多岐にわたっていること、そしてそれを押さえた人でないと本当に政治的、社会的な対策はできないこと、そしてそれ等を政治家が手に入れるにはその前に国民が真剣に政治に向き合い、考え、学ばねばならないこと、そして何事も限界はあるのだから完璧を目指すのは結局問題を先延ばしにしたり、大きくしたりすることに繋がることも多々ある。

そう言う観点からゼネラリストを目指し、見つけ出して問題を解決していくしかないことを、我々は早急に理解し、方向転換せねばならない。

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