チルアウト 僕なりの「終わりなき日常を生きる」術
「チルアウト」という言葉がある。『とんかつDJアゲ太郎』で知った。3、4年前のことだろう。先日、東京ポッド許可局のアーカイブで「チルアウト論」を聴きなおしたことをきっかけに、「チルアウト」に対しての僕なりの理解・解釈が、ここ2、3ヶ月でかなり深まってきたので、noteにまとめてみたいと思う。
「チルアウト論」
まずは東京ポッド許可局の「チルアウト論」を聞いてもらいたい。
家系ラーメンがEDMラーメンだとしたら町中華のラーメンはチルアウトラーメンだよね、と語らっている。ラーメン発見伝のなかでラーメンハゲが「情報を食ってる」と言ったのと同じことだ。
毎度この3人の「論」は腑に落ちる。この「論」を聴いて、チルアウトとはあらゆるジャンルに共通する概念、概念というより、もはや現代を生きるための新たな価値観であると感じた。
「情報」食傷時代
世のあらゆるコンテンツが情報過多になってしまっている。コンテンツが飽和状態にあるからこそ、そうなるのもしょうがない。ラーメンや演芸がその最たるものだ。
ジャンルとして「美味い」や「スゴイ」が当たり前、という前提があるなかで「特別ななにか」="something special"となるためには情報で他を圧倒することが必要になってくる。「濃いめ、多め、固め」「ニンニクマシマシアブラカラメ」あるいは「システム漫才」、「キャラ芸人」といった具合に。このようなテクニカルタームが日常的に使われるようになっている。
あらゆる「情報」に食傷気味になっているなかで、自ら「情報」をデトックスした時間を過ごすことが「チルアウト」なのであろう。
町中華のラーメンを食べたり、寄席で落語を観てみたり、近所の公園まで散歩してみたり、ノーブランドのシャツを着てみたり、日常系アニメを見てまったりしてみたり、純喫茶でアイスコーヒーとタバコを一服してみたり。
情報飽和時代、"something special"飽和時代に、
程よく、期待しすぎることもない、これぐらいが「ちょうどいい」と思える選択肢を持つことが人生を豊かにする気がする。すくなくとも、僕はそう思っている。
『ちょうどいい』
この「論」を聴いていて、ライムスターの『ちょうどいい』が聴きたくなったのは偶然ではないだろう。許可局3人の「チルアウト論」とこの曲の世界観は共通している。
"something special"を求め続けることは、常に「もっともっと」と感じる欠乏感を生み、情報疲れを起こしてしてしまうかもしれないが、「ちょうどいい」という価値観さえあれば、なんでもない日常のふとした瞬間に、生きることのおかしみや素晴らしさを感じることができる。
当たり前の日常を生きることの「尊さ」を歌っている曲だ。
まさに最高のチルアウト賛歌だと思う。
なんかいいことないかな
が学生時代の口癖だった。しかし、水前寺清子も言う通り「幸せは歩いてこない」のである。現状に「なんとなく」満足できない日々を送りつつも、なにかを始める行動力もなく、うだつの上がらない日々を過ごしていた。
学生時代の僕ときたら、宮台真司の『終わりなき日常を生きろ』のメッセージを中途半端にしか受け入れきれず、グズグズと生きていたのだ。
会社に入るとなんだかんだ仕事に追われ、それ以外の時間は飲み会、合コン等々の夜遊び。仕事・夜遊び・寝るの繰り返しの毎日。
なにかとバタバタ生きる日々があったからこそ今、チルアウトの良さが理解できるのだろう。
僕なりの「終わりなき日常を生きる」術とは
日常の一瞬一瞬を「ちょうどいい」と思える「チルアウト」的価値観があればこそ、たまの"something special"が輝くのだ。
人生において、
「チルアウトな日常」と「"something special"な瞬間」
の自分なりのいいバランスを見つけることが、僕なりの「終わりなき日常を生きる」術なのだと思う。
余談①
先日の投稿の中で、「ゴキゲンな土曜日」について書いたのだが、(本題とは別だけど)かなり上質のチルアウト体験だったと思う。
余談②
このnoteを書いているうちに、老子の「足るを知る」という言葉を思い出した。チルアウトから老荘思想についてまで語るとやや飛躍があるのかなと。後日またきちんと老子について勉強しなおしてからnoteを書きたいと思う。