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テトテ

誰かを支えたい

誰かの力になりたい

誰かの役に立ちたい

人して、人間として、社会の中で生きる我々は当然抱く感情である、様に思う。家族であったり、恋人、親友、友人、同僚、後輩、自分にとって欠かせない大切な人たちの、幸せを願い、支えになりたいと思う。当然の感情である。

そこでふと思う。

「誰かを支えるとは何か」

一体どんな事をすれば、誰かの支えになる事ができるのだろうかと。

そして、それとは対照的に、どこまで行っても第三者の僕にはできる事など、無いのではないか、とも思う。

雨空の中こんな事を考えていたら、受験合格の際に交わした会話が脳裏に浮かぶ。

「先生のおかげで、希望以上の大学に合格する事ができました。本当にありがとうございます。」

「僕は仕事をしただけで、シタクチビルの努力の結果だよ。」

この時私は、心の底からそう思っていた。それだけではなく、受験に集中出来る様様々なサポートをしてくれた両親、一緒に頑張った友人、誰一人が欠けてもこの結果は得られなかったと思う。

しかし、僕が努力を行い、なすべき事をした結果、という事実がそこにはある。試験会場で問題をとき、合格点を得たのは、紛れもなく僕なのである。

事前にどれだけ第三者が手助けしようとも、頑張らなくてはいけないのは、本人なのである。

ここで最初の問いに立ち帰ろうと思う。

「第三者の僕達に、一体何ができるのだろうか」

兄弟のため、恋人のため、親友のため、懸命に働く上司のため、一体何ができるのだろうか。

何をしたところで、努力をしなければいけないのは本人なのだから、僕達が出来る事など高が知れているのかも知れない。

否、そうは思わない。受験も、就活も満足いく結果が得られたのは、紛れもなく周りの応援があったからなのだ。もちろん僕も、できる努力は行った。それでもやはり、周囲の人たちのサポートがあったからこそ、辿り着けた結果だと、僕は思う。

周囲の人たちに、僕をサポートした、という自覚はないのかもしれない。それぞれができる事を、直向きに行なっていたのだろう。それぞれの領分の中で、それぞれの職分の中で、それぞれが当たり前の事を当たり前にこなしたのだ。

日々子供にご飯を用意する両親、後輩の指導をする先輩、決まった時間に電車を運行する車掌、荷物を運ぶトラック運転手、挙げればキリがないが、私たちはそんな当たり前の上に立っている。

人間は、最初は新鮮に感じても、慣れてしまうと当たり前に感じてしまう。上記の事も当たり前ではないのかも知れない。

眠たい目を擦りながら、もう一眠りしたい気持ちを押し殺して、朝日が昇る前に家を発ち、電車を走らせている人がいる。子供の健康を願い、弁当を用意している母親がいる。家族の為に頭を下げる父親がいる。

彼らの不可視の努力が無ければ、僕は輝く明日に思いをはせる事はできないだろう。そして何より、生きていく事さえ、独りでは出来ないのだと思い知る。

当たり前の事なんて、僕たちがそう感じているだけで、何一つないのかも知れない。それは、読んで字の如く、有る事が難しい、「有り難い」事ではないのだろうか。

話を戻そう。

「僕達に一体何ができるのか。」

誰かの為にできることなど、多くはない。ただ僕らは、目の前に置かれた、もしくは自分で置いたモノに対して、懸命に取り組む以外ないのではないか。

最後に努力をするのはもちろん本人である。

しかし、本人が最後に努力をするという行為は、僕らが、懸命に自分の物事に取り組んだ結果の上にある。

そんな本人の努力もまた、誰かの努力の支えになっている。

そんな相互扶助の繋がりを、社会と呼ぶのかも知れない。そうであるならば、「社会人」という、言葉の意味は、思っているよりも温かみがあるように感じられる。

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