物差し価値観判断基準。
「自分の物差しでしか測れない人は、不幸な人だ。」
最近耳にした言葉である。
僕は、性格が悪い。
誰かが、何かを発言していたら、真っ向から反対したくなる。すこしでも穴を見つけたら、揚げ足を取ろうとする。そして、自分が正しいという事を声高に主張したいのだ。
そんな裸の王様のような僕には、耳が痛くなる言葉だ。そんな僕に、周りの人間が言い放った言葉かも知れない。
僕は、性格が悪い。
その理論に穴があるのなら、屁理屈だろうがこねてやろう。
「如何様にして、他人の物差しを利用する事ができるのだろうか」
人間は皆、自分の主観のなかで生きている。僕は君だけど君は僕じゃない。君は僕だけど僕は君じゃない。
どれほど深く分かり合える同志でも、孤独な夜はやってくるのだ。
100%他人の心が”理解”できるその日まで、他人の物差しなど利用する事ができようものか。
そんな屁理屈を、僕は主張する。
君は言うだろう。
「僕の主張とずれている。僕が伝えたいのは、どんな人にもそれぞれ大事にするものがあって、そこに優劣はないという事なんだ。自分と誰かの意見が違ったとしても、その意見を尊重する。そうすれば、人間関係もうまく構築できるって事だよ。実際、君のような頑固人間は、関係を構築するのが苦手だろう。」
図星である。僕はコミュニケーションがうまくない。気の許せる数少ない友人や恋人は抜きにして、それ以外の人との会話はめんどくさい事この上ないのだ。特に年上との会話は気が滅入る。
それよりも、偉大な先人や架空の人物と、本や漫画の中で静かに会話することの方が余程面白い。
話が逸れてしまったので、元に戻そう。
「僕が伝えたいのは、どんな人にもそれぞれ大事にするものがあって、そこに優劣はないという事なんだ。」
確かにそうだ。大切なものは、十人十色、三者三様だ。僕が、周りにいる友人や家族、恋人を何よりも大切に思う様に、誰かがお金や昇進・好奇心、その他の事に判断の基準を置いている事を、理解できる。
理解はできるが、僕はやっぱり、自分の物差しのみを利用する。
君の意見に賛成する事はできても、自分の物差しでしか図ることのできない人間が、不幸な人だということに納得ができない。
何より、人は自分の物差しでしか物事を測れない。
貴方のその意見も、自分の物差しだけで測っていないだろうか。
僕は、性格が悪い。
またもや屁理屈をこねたくなる。
「”それぞれの大事なものに、はっきり優劣があると信じている”とする他人の物差しがあった場合、君はその事をどう考慮するのだろうか。」
それも多様な価値観の一つだとして許容するのだろうか。その結果、君の大事なものを踏みつけられても、その意見を尊重する事が果たしてできるのだろうか。
そもそも、自分のみならず他人の物差しでも物事を測れる君は、相反する物差しを扱う事など容易い事なのだろうか。
またもや君は、言うだろう。
「例えば、読書をすると価値観や考え方、習慣が変わる。人とのコミュニケーションの中でも同様の事が起きる。要するに他人の物差しに触れる事で、世界が広がっていく。その様にして、自分だけではなく、他人の物差しでも物事を測れる様になるはずだ。」
君の言う通り、多様な物差しに触れる事で、僕らは人として成長していく事ができる。ベルナールが言った様に、僕らは巨人の肩に立って世界を見渡す事が許された小人である。
しかし、世界を見渡すのは巨人ではなく、”矮小な小人”なのだ。
言い換えるなら、実際に他人の物差しで測るのではなく、他人の物差しを自分なりに解釈し、自分の物差しとそれを統合した上で、物事を測るという事ではないのだろうか。
そうならば、自分だけの物差し以外になんと表現できようか。
やはり、どれほど深く分かり合える同志でも、孤独な夜はやってくるのだ。
映画「ジョーカー」のあるフレーズを参照しよう。
「マレー、喜劇とはなんだと思う? それは結局のところ主観に過ぎない。善悪だってそうだ。なにがただしく、なにが間違っているかを決めているのは主観だ。」
拡散・統合・離散と繰り返す中で、人の考え方は絶えず変化している。そして、それはどこまでいっても主観にすぎない。
客観の主体である神にでもならない限り、自分の物差しでしか、人は物事を測れないのである。
だからこそ、僕は声だかに主張する。
君は君なのだ。君は君で居ていい。誰かになろうとする必要などない。脇役でも、銀行マンでも、いじめられっこでも、どんなに性格の悪い僕だって、自分であっていいのだ。
他人の成功を妬もうとも、誰かの悪口を言おうとも、何もうまく行かなくても、誰にも必要とされなくても、僕はありのままの自分でいていい。自分らしく生きられない事にストレスを感じていても、普通らしく生きていても、それも自分じゃないか。遠くに追いやれば追いやるほど、近づいてくるモノもある。そんな時は、抱きしめてあげよう。
世界の全てが、「違う」と言った所で、君が正しいと思うのならば、それは正しいのだ。君は、自分の物差しだけで物事を測って良いし、その中で幸せを享受する事ができる。
主観は、限りなく柔軟なもので、君が全ての主権を持っている。
映画「タイタニック」で、ジャックが叫ぶ様に、自分はこの世界の王様なのだ。
僕は君のことを馬鹿だと罵り、君の全てを否定するだろう。
それでも、僕は君の全てを肯定しよう。君の感じる事が世界なのだ。
主観を否定する事は、誰にも出来ない。
なぜなら、僕らはどこまでいっても、自分の物差しでしか、世界を測れないのだから。
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