アナログなものさし
考えながら書くというスタイルだから、本当に自由にやってしまうと失敗する。
本当にパソコンで打ったままにしてしまうと、最後までたどり着けなかったり、文章が乱れていたりする。書いている途中や、書いた後にはある基準で見直したりする。
どういうふうに基準を設けているのか。暗黙的なので少しずつ言語化していきたい。
今回は「カテゴライズしない」ということについて考えてみる。
カテゴライズする。Aはあのグループに入っていて、Bはあのグループに入っている、みたいに何かを分類すること。
これをあえてしない。理由は、noteという様々な人が読む場所に文章を投稿するからだ。
こういう場所では、自分が知っている分類の仕方が通用しないことが多い。「Aみたいな物はBだからCだ」というためには、これを読む人と分類の仕方を共有している必要がある。それから、初めて「Cだ」という結論の部分が説得力を持つ。
この条件は盲点になりやすい。書く側としては、「Cだ」という結論を導き出すために必死になってしまう。だから、前提となる「Aみたいな物はBだから」の部分を都合よく選んでしまったり、本当はBじゃなさそうなAを持ってきてしまったりする恐れがある。
これが怖い。さらに、この分類を「人」に対してすると、誤解をさせたり傷つけたりすることも十分あり得る。そもそも、人は「Aみたいな人はBだから」というように簡単に分類できないだろう。
デジタルなものさしではなく、アナログなものさしを持つことである。
例えば「私はリンゴが好きだ」という文章を考える。これはかなりデジタルな表現だ。ではどう書き直せばいいのか。
その時に考えるのは、「私以外にもリンゴが好きな人がいるかもしれない」とか、「私はどういうふうにリンゴが好きなのか」、などだ。表現されたものと、自分のなかの複雑さを見比べることである。
「私はリンゴが好きだ」という文章は、青りんごが好きな人も、赤リンゴが好きな人も、自分の地元で取れたリンゴが好きな人も言いうる。しかし、これをもう少し「私はおばあちゃんがくれる青森のリンゴを、シャーベットにして食べるのが好きだ」というだけで、ずいぶん個性的になる。自分にしか言いえない表現に近づく。
「私はリンゴが好きだ」の各部分の言葉を詳しく言い直して、展開するのである。定規のメモリを細かくしていくことを想像してほしい。リンゴが好きな人と、嫌いな人しか測れなかった定規が、様々なリンゴの好みを測れるようになる。これを突き詰めると、アナログな表現になっていく。
アナログな表現を目指す事は、カテゴライズしないことにつながる。
なぜなら、全ての人がそれぞれ違うようにリンゴが好きな(あるいは嫌いな)世界では、好き嫌いの尺度で分けるよりもそれぞれの違いを認識しないとうまく世界を捉えられないからだ。
さてここで大きな問題がある。言葉にそれができるのかどうか。言葉はそれ自体で、カテゴライズする性質をもっている。リンゴと言った途端、リンゴとそれ以外の物を分離してしまっているからだ。しかし、だからと言って曖昧な言葉を使っても相手に伝わらない。ある程度の制限も必要だ。
だから、私は言葉を重ねて展開する、という方法をおすすめする。言葉を重ねれば、ある程度の段階で、ほとんどデジタルじゃなくなるからだ。言葉の組み合わせは限られているとはいえ、この世に全く同じ文章は存在しない。
言葉を積み重ねる事で、個性的になる。それ以外の楽しみもある。表現がアナログになればなるほど、文章は個人に刺さりやすくなる。限りない可能性の中から選び取られた、気持ちが一致したときの感動はひとしおだろう。また、「違って当たり前」という立場から俯瞰的な視点を得ることもできる。世界がもっとはっきり見える。
文章表現とは、どうしたら個性的になれるか、どうしたら伝わるかのせめぎ合いに見所がある。デジタルとアナログのあわいに漂いながら今日も身の置き所を探している。
最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!