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東京の満員電車はラグビーW杯そのものである

平日の朝、駅のホームで多くの学生やサラリーマンが目を血走らせながら電車を待っている。
皆一様に黒いスーツや学生服に身をまとい、全員がスマホに目を落としている。

「まもなく3番線に電車が参ります。黄色い線の内側でお待ちください」

アナウンスがホームに響き、皆が一斉に顔を上げ、迫り来る電車に目を向ける。ザザザっと間合いを詰める。
そして、誰からともなく足踏みが始まり、思い思いに雄叫びを上げながら腕や胸を叩き、これから始まる一日の戦いへの決意を大合唱で表明する。
学生やサラリーマンたちによる「ハカ」が終わると、ちょうど到着した電車のドアが開き、大量の人が押し出されてくる。

試合開始である。



その日、馬越は満員電車に乗るはずではなかった。
バイトも休みなので溜まっていたドラマ(録画している大泉洋のやつ)でも見て過ごすつもりだった。
しかし、一本の電話によりその予定は水の泡と化した。

「ごめん、店長だけど。馬越くんほんと申し訳ないんだけど今日すぐ来れる?小川さんが”また”おばあちゃんの法事が入っちゃったらしくてさ」

馬越は二つ返事で快諾し、バイトへと向かうことになった。
「小川さんはおばあちゃんが7人くらいいたんだな」
そんなことを思いながら着替え、駅へと向かった。

時間は8時45分。
電車がもっとも混む、魔の時間帯である。

馬越がホームに着くとちょうど電車が到着した。
開いたドアから人が流れ出してくる。
先頭にいたサラリーマンが、押される勢いで手に持っていたカバンを前に落とすほどだった。すごい人の数だ。

「ノックオン!」

どこからか声が聞こえた気がした。

電車から人が流れ出したかと思うと、今度は大量の人が電車の中に吸い込まれていく。
これ以上入らないだろ、と思うようなところからさらに次の人間がタックルするように体を押し込んでいく。

馬越も遅れまいと電車に体をねじ込もうとしたその時、一人のサラリーマンが横から馬越の前に入り込んできた。なんと卑怯な。

「オフサイド!」

またさっきの声が聞こえた。
見渡してみても誰が声を出したのか分からない。
気づけば先ほどのサラリーマンの姿も無くなっていた。

人がギリギリに押し込まれた電車は間もなく走り出した。
ポケットから携帯を取り出すこともできないくらいの車内。
目的地まで身体が持つだろうか。
約30分間、このスクラムの中のような環境に耐えなくてはいけない。
その時だった。

「…やめてください」
女性の声が車内に静かに響き渡った。

「やめてください!」
さらに大きな声で女性が叫んだ。
間違いない。痴漢だ。痴漢という卑劣で下劣な犯罪がこの車内のどこかで行われているのだ。許せない。
しかし馬越の位置から少し離れたところのようで、女性の姿も見えない。
身動きできない自分の身体がよりもどかしく感じた。

「手を掴め!」
今度は男性の声がした。

「掴むんだ!そいつの手を掴め!ジャッカルだ!」
また別の男性が叫ぶ。

「ジャッカルしろ!」
「行け!チャンスだ!」
「そうだ!今だ!」
「姫野!行くんだ!ここしかない!」
車内の様々なところから叫けぶ声が聞こえてくる。

「この人痴漢です!!腕を掴みました!!」
女性の声が車内に響き渡った瞬間、


「ノットリリースザボーーール!!!!」

あの声だ!さっきから何度も聞こえてくる、あの爽快な声!!

うおおおおおおおお!
車内の全員が喜びの歓声をあげる。

その時、女性の声がした辺りから一人の男性の身体がぐぐぐっと上に持ち上がり始めた。
周りの男性が一人の男性を持ち上げているのだ。
持ち上げられた男性の手首には、女性に掴まれた痕がアザとなって浮き出ている。

「や、やめろー!降ろせ!降ろせよ!!」
男性は半べそをかきながら暴れているが、身体はその意に反してどんどん持ち上がっていく。
電車の天井を突き破り、男性は電車の外に放り投げられてしまった。

「ラインアーーーーーウトォーー・・・」
投げられた男性の声が遠ざかっていった。

ペナルティを得た女性はキックを選択。
成功すれば女性に3点が入る。
距離はあるが、試合も終盤。悪い選択ではない。

フィールドにボールをセットし、ルーティーンに入る。
手を合わせて、腰をぐにぐにクネらせている。
非常に独特なルーティーンだ。

車内が静寂に包まれる。
彼女の一挙一動に車内の全員が注目している。
助走に入り、思い切り右足を振り抜いた。

天高く舞い上がったボールは車内のサラリーマン達の頭上を越え、線路を越え、駅を一つ越え、二つ越え、スカイツリーと東京タワーの間を見事に通過していった。


ピピーーーー!!!

キックに成功したその瞬間、電車は馬越の目的地に到著した。
爽快な気持ちを胸にバイトに向かう。


バイト先に着くなり、店長が声を掛けてきた。
「馬越くん!ありがとう!これ急遽たくさん入荷したからレジの近くに並べて!」

店長が運んできたダンボールには、日本代表ユニフォームに身を包んだヒゲモジャラグビー選手の本が詰められていた。
馬越がその一冊を取り上げたその時、その選手がウインクをした気がしたが、きっと気のせいだろうと馬越はすぐに仕事に取り掛かった。

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