【イタリア・ドイツ旅日記10】30年もたてばドイツも変わる、人も変わる
2022年イタリアに旅して(最後にドイツに寄って)思ったことあれこれ 〈第10回〉
30年くらい前、フランクフルトに住んでいた。そのころに知り合った日本人で、そのまた30年くらい前、子どものころにドイツにいて、再び仕事で赴任してきた人がいた。その人が「この国が変わらないことにはびっくりする。30年前と同じ商品が同じ棚に並んでいる」と笑っていた。
ドイツ人のそんな頑固さはよく知られているし、それは良い形で機能することが多い。だから、私も今回、やっぱりドイツだ、30年たっても何も変わっていないじゃないかと苦笑いするのだろうと思っていた。
ところが、である。それだけの時を経て訪れたフランクフルトは、すっかりさま変わりしていた。その中心である、レーマーと呼ばれる旧市街からして新しくなっていた。聞けば、2012年から2018年、6年をかけて15棟の建物を「昔のままに」再建、加えて、かつてあったものを含めて20棟を新築して、第二次世界大戦で破壊される前の街並みを再現したという。
メインストリートも大きく変わっていた。カウフホフというデパートはフランクフルト最大のデパートでありながら、なんともさえないものだったが、それがガレリア・フランクフルトという、六本木にありそうな商業施設になっていた。
それに何よりも歩いている人があか抜けていて、明るい表情だった。気難しい顔をしているという印象が強かっただけに、なんだか拍子抜けするほどだった。
店もほとんど変わっていた。毎日エスプレッソを飲んでいたコーヒーショップもなくなっていた。せめて、ここはどうだと行ってみた市場、クラインマルクトハレも2階のテラスがおしゃれなオープンエアのワインバーになっていた。
中もかなり変わっている。唯一、入り口近くで日本人向けに新聞のような薄切り肉を売っていた店は(日本でよく使う薄切り肉はスーパーなどでは手に入らず、そういうふうに切れるお肉屋さんも限られていた)記憶していたのに近く、当時、ご両親を手伝っていた若い2代目が継いでいるようだった。日本人女性にかわいいと言われて顔を赤くしていた面影が残っていた。
明らかにイタリア系の店が増えた中で、目に飛び込んできたのが、日本のお茶と包丁とぎの店だった。どうやらお寿司も出しているらしい。気になって話しかけてみると、店のご主人は英国のインベストメントバンク、ケルンのオペラ座のマーケティングマネージャーなどを経て、2005年にこのお店を開いたとのことだった。
フランクフルトは2014年、欧州中央銀行の新本部ビルが完成してから人口層が大きく変わり、雰囲気が一変したという。ホームレスや薬物中毒者、ネオナチの若者たちの姿が町から消え、上質な服に身を包んでいる人が増えたことに納得がいった。
市場を後にして、マイン川の方面に向かった。マイン川にかかる鉄の橋、アイゼルナー・シュテグに向かう。寒くなってきたので橋の手前のカフェでグリューヴァインと呼ばれるホットワインを買って飲みながら歩く。
橋にはパリのポンテザール橋のように南京錠が欄干にたくさん取り付けられていた。30年前、そんな言い伝えはなかったなと思いながら、橋を渡る。橋を渡って、対岸の旧市街を眺める。
ドイツと言えども、30年もたてば、街は変わるのだ。昔を思い出して心が痛むようなものは、かき集めても欠片ほどしかない。
もう二度とこの街に来ることはないだろうと思っていた。
ここで暮らしていたのは約30年前、28歳から30歳の3年間だ。その間、私はひどく落ち込んでいた。大学には通っていたものの、それが何になるとも思えなかった。日本で築きかけた、そしてバブルの勢いが残るなかで軽々しく捨ててきた、ささやかなキャリアがにわかに惜しかったものに思えた。
どんどん負のスパイラルに陥った。学校以外でどこかに出かけようにも、その気力が起きる前に、私は内側に閉じこもってしまった。さっさと日本に帰ればよかったのかもしれないが、見栄と強がりの延長で、そのタイミングも逃していた。
過食と嘔吐を繰り返すようになった。大学に入る前、語学学校で知り合った友人を通して、薬を手に入れた。それを飲むと夜は眠ることはできたけれど、目覚めた時には、目覚めたことに愕然とした。
投げやりなまま時間がすぎる。ある日、何があったわけでもない。あ、風が吹いた。そう思った時に、車道にふらふらと出ていった。反対側の車道が空いていて、車がそちらによけてくれたおかげで、私はケガひとつしなかった。車はそのまま走り去り、怒鳴り声も遠ざかっていった。ハリネズミが車に轢かれて死んでいた。
1995年の震災をきっかけに日本に帰った。
それからいろいろなことがあった。いくつもの出会いと別れがあり、ここまで生きてことをあらためて振り返る。ただ、過去をなつかしくたどろうとしても、その3年間のことになると思考が止まる。
でも、どこかでわかっていたのは、いつか、あの時代の自分を回収してこないといけないということだ。いけないというより、おそらく、そうしたかった。そこで今回、愛犬の死とコロナ禍を経て、ようやく日本を飛び出す気になった勢いで、その時機がきたことにした。
冬が近い夕暮れの青灰色の光が、向こう岸の橋のたもとに遠い日の自分の姿を浮かび上がらせる。あのころ、この川が好きだった。とうとうと流れるこの川が好きだった。しばらく川辺でぼんやりして、気が向いたら橋を渡り、また戻る。それが日課になっていた。30になるかならないか。何も持っていなくてあたりまえなのに、何も持っていないと自分に腹を立てている。無邪気な夢を信じるほど無知ではなく、それでも無邪気な夢を追い続けるには無力だった。その隙間にすっぽりと落ち込んでいた。それだけだ。そんなものだと今なら言える。
生きていて、よかったよ。
それだけ伝えて、また私は歩き出す。ここまでくるのに、30年かかった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?