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【イタリア旅日記01】「やらない理由」を数えない

2022年イタリアに旅して思ったことあれこれ  〈第1回〉

 イタリアに行ったのは、写真展に参加するからという理由だったけれど、それは表向きのことだった。客観的にみて、出展者がわざわざ出向くような展示ではなかったのだ。イタリア国外から4人の写真家を選び、各々が10点展示するという趣旨のその写真展は、作家がデータを提供して主催者がプリント、サイズもフレームも統一するということで、展示そのものがカタログのようなものだった。当然というのか、ましてやというのか、交通費も宿泊費も出ないのだから、他の3人の写真家は当然のように来ていなかった。

 では、イタリアへの旅を決めた本当の理由は何だったかというと、それは非常に個人的なことで、私は自分に対してたしかな危機感があったのだった。コロナ禍の2年間、そして個人的にはその前に、老いてきた愛犬との生活を優先していた3年間、合わせて5年ほど私は必要な取材や撮影に出かける以外は家にこもっていた。元々そういう働き方を好んで書いたり撮ったりして糊口をしのぐ生活を何十年もしているわけだし、今の住まいは気に入っていて、その中で一日を過ごすのは決して苦痛というわけではなかったけれど、それでも時折自分で意識的に深呼吸をしなければならないような、息苦しさが日に日に募っていた。
 
 このままでいいのだろうか。そんなことが気になりだしたのは、仕事の性質だけでなく、自分の年齢によるところも大きかった。フリーランスで生きていくからには生涯現役は覚悟のうえだけれど、50代後半、ふと気づけば体力は著しく落ちて、それは連鎖的に気力も削いだ。仕事は好きだけれど、同じやり方では続けられない。一方では、人生100年時代などと言われ、望む望まないにかかわらず、おそらくまだまだ生きていかなければいけないらしい。

 どこかで小舟なりにも舵を切らなければならないならば、早いほうがいい。先延ばしすると、心も体もどんどん縮こまって、ますます動けなくなるのは見えている。

 イタリアに行かない理由はいくつでも思いつき、ありふれた理由を並べ立てると、行かない選択は正当化され、誰もが納得する判断になった。でも、「やらない」選択は「このまま」を選択すること。「行かない」色のカードが続く中で、燦然と輝きはしなかったけれど、淡い「行く」色をしていたのが「写真展」のカードだった。

 イタリア行きの航空券を探し始めると、まだ懐疑的ではあったけれど、どこかからそれを押し返そうとする力も湧いてきたのを感じた。期待とか、希望とか、あらためて言葉に出せば気恥ずかしいような、しばらく忘れていたかもしれない、そんな気持ちの、しかもその芽のようなもの。決して短くはない人生において、「やる」か「やらない」かの岐路に立った時、いつでも「やる」を選択してきたことも思い出されてきた。

 とにかく、自分をここ、この場所、この時間の流れから解放しよう。逃げ出せ、自分。旅はいつも大事なことを教えてくれる。

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