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儚さの肯定

おはようございます。こんにちは。こんばんは。おやすみなさい。雪です。長いです。根気のある読者のみんな、よろしく!

他者とのコミュニケーションをはじめとして自分の考えを述べるときや悩み事をするとき、映画を見るとき、歌詞のある音楽を聞くとき、歌詞のない音楽でも楽譜を読むとき、論文を読むとき、小説を読むとき、など言葉を使うときが多いと思います。実際、今も言葉を使っています。

人を殴ったりすると、直接人にダメージを与えることができます。それは、物理的にエネルギーを伝播させることが可能だからです。そこに物理的な接触が生じているからです。
言葉は、人がそれぞれ考えたりコミュニケーションを取る上で同じ道具として使っているものというだけで、その質量は無く実態はありません。しかし、他者へ情報として伝達することが可能と考えれば、言葉は質量をもたなくても意味をもつことが想像できます。つまり、人を殴るとか人に触れるとか物理的な接触と同様に、言葉は情報の伝達という点において他者との接触が可能であり、直接ダメージを与えることも可能なのです。

例えば、ボールを壁や人に向かって投げることは明示的で分かりやすいですが、言葉は違います。独り言だと思ったらそうじゃなかったなどという経験はありませんか?逆に独り言を話していたら独り言だと思われなかったとかでもいいです。これは日常における、言葉の種類が一目でわからないことを意味する例ですが、SNS上での言葉になってくるとそれはさらに分かりづらくなってくると思います。言葉ははじめにも少し述べたように、用途は様々で一方的な発言であったり、相互的なコミュニケーションだったり、内面での考え事だったりします。特に、SNSなどではそれらが入り乱れ、その区別は難しいです。むしろ、それがSNSの良いところなのかもしれません。 

言葉は難しいものです。例えば、「今にも消えてしまいそうで、儚くて、美しい」と言ったとして、これはどんな意味を持つのでしょうか。

きっと、これは一方的な発言(具体的には、単なる言葉、詩、など)に含まれるでしょう。コミュニケーションを意図してないでしょう。しかし、もしコミュニケーションだとするとどうなるでしょうか。例えば、会話の中の一部として上の言葉があるなら、どうなるのでしょうか。そこにはきっと、消えてしまいそうという脆さや今しかないという刹那さを嘆いて、儚いといい、永遠になく今に見れたことを美しいと感動していることを相手に伝えたのだと思えてきます。相手が同じ傍観者なら、発言者と同じ立ち位置でしょう。相手が発言者の言う儚い対象なら、何故だか少し嫌な気持ちになってきます。そこには、相手が儚いという決めつけと、それに対する肯定を感じるからです。

「今にも消えてしまいそうで、儚くて、美しい」の1つ1つ、例えば「今にも消えてしまいそう」と「儚い」と「美しい」が別々になればそうは感じないかもしれません。1つになることで、それを良しとし消えて良いと言われている気になってくるのです。

似た言葉に、「可哀想で可愛い」などがあります。可哀想と言うのもまた決めつけの1つに感じます。可哀想の実態とはなんでしょうか。

ここに、総じて言えることは、共感とその肯定です。消えてしまいそうなことや儚いこと可哀想であることには実は実態はないと思います。発言者の過去の経験や知識、価値観や憧れ、哲学によって目の前の何かに共感しているのだと感じます。
また、その共感に対して「美しい」や「可愛い」という絶対的な肯定を意味する言葉を付け加えることは、自分に対する肯定ともなるのです。つまり、目の前の何か(自分でない他のもの、他者)を介して自己を肯定していると言ってもいいかもしれません。

話を戻して、SNSでの言葉は一方的な発言であったり、相互的なコミュニケーションだったり、内面での考え事などさまざまで、それがどれなのかはっきりわからなかったりします。例えば、内面の悩みをメモとして使い、他者の意見を求めない人もいると思います。対して、他者の意見を求める人もいると思います。この場合、前者は内面的な考え事で終えていますが、後者は相互的なコミュニケーションに発展する可能性を秘めていると言えますし、その意味ではコミュニケーションと言って良いでしょう。また、ただの情報伝達として使うものもあります(公式アカウントなど)。このように、SNSにおける言葉の使い方は多岐にわたります。

このような環境下で、上で述べたような共感と肯定、さらには他者を介した自己の肯定というものは大変にややこしく感じます。なぜなら、SNSでこのような言葉を例え見かけたとしても、そもそもがコミュニケーションを前提としていない言葉なら、その言葉にどのような意味があるかを考える意味はないと感じてくるからです。一方で、SNSという不特定多数の多くの人がいる場所と考えてくると無限大にコミュニケーションの可能性を感じてくるからです。無限大というのは、不思議なもので、「個々を認知できなくなってくる」というのが無限大の概念だと思います。ですから、SNSとして、ユーザーが無限大と考えたら前者の考え方で良いのです。しかし、その1つ1つの反応やフォロワーなどは有限であり、個々を認知するかどうかはおいておいても、「個々は存在している」と思うと、無限大にコミュニケーションの可能性を感じざるを得ないのです。

この論法だと、言葉の使い方がわからなくなりそうです。例えば、「儚くて美しい」や「可哀想で可愛い」などを完全に排除してしまいそうになります。なので、ここで大前提として人間とコミュニケーションを取る上で大切だったことを思い出してみます。それは、言葉は他者に伝達するけど、完璧には伝達しないと言うことです。最初に物理と並べて説明しましたが、物理的な接触はどれだけのエネルギー(さらに言えば運動量など)が輸送されたか計算することは理論上可能である一方で、言葉は完璧どころか1%も伝達しないことすらあるということです。そのどれだけが伝わるのかは不明なのです。ただ、言葉が伝達しているかも(何か話されているかも)という感覚はあるくらいかもしれませんが、言葉というのは物理的な運動ほど正確に測れないのです。つまり、主観的に考えればすべての言葉というのは本来意味がないのかもしれないと思えてきます。

しかしながら、言葉には意味に溢れています。すなわち、意味を感じる言葉というのは、発言された言葉自体に意味があるのではなく、意味を感じると感じた側の能動的な感覚なのかもしれません。つまりは、感じるあなたや私自体が意味をもつということです。

続きはまた次の機会に話したいと思います。今日は、儚さの肯定にあるのは他者を介した自己の肯定なのではないかと言うことを考えてみました。また、その儚さの肯定の言葉がなんらかの形で発言されたとして、それが他者が存在する言葉を発言しコミュニケーションになっている可能性を考えると、そこには暴力性の予感を私に感じさせます。それは、その根底に儚いという決めつけと、それに対する一方的な絶対的な肯定を伴っていると感じるからです。しかし、コミュニケーションにおける言葉の大前提として、そもそも他者から発言される言葉というのはほとんど意味をもたない可能性があると考えるとなんの問題もないかもしれません。

言葉は難しいです。そこにはいつも共感と拒絶があり、それに伴って肯定と否定があるからだと思います。

※2024.06.25.16:30 改定と加筆

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