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小説 きみ教幸福論

しあわせになりたい。

海岸沿いの帰宅路、どこまでも広がるような海をぼんやりと眺めながら、傘を片手にふらふら歩く。街灯だけが私を照らす薄暗い道でひとり、私だけが、私のことを考えている。
しあわせになりたい。そう呟いてみるだけで、微かな独り言は雨音にかき消された。私が幸せになれないことくらいは知っているし、そもそも幸せがどういうものなのかすら、私は知らない。

幸せという感情について、私がひとつだけ知っていることといえば、きみと過ごした昨年の冬のことだった。あのとき、私はたしかに幸せだった。幸せだったけれど、その幸せの輪郭さえぼやけはじめていることに、私は気づかないふりをしている。

私の心には、大きな空白がある。その空白にあるはずだったものは記憶。私は昨日のことでさえ上手に思い出せない。目が覚めて知らない天井を目が覆うたび私は、異世界に飛ばされたような気分になる。たいせつなきみの声や、私にくれた言葉も空白になっていく。くるしみばかりが忘れられずに私の心を蝕んで、忘れたくないたいせつな記憶はなくなってしまう。

家に帰ってすぐ、ある日を境に書きっぱなしになっていた手記を開いた。ずっと聴くことができなかったきみの言葉のカセットテープをもう一度、再生してみる。

*

「もしもし、聞こえますか?」
細い糸のように透き通った声の主であるヨウが、電波越しに私へ問いかける。それは終わりのない暗闇の中から一本だけ垂らされた『蜘蛛の糸』のようで、私は心底安心してうっとりしていた。

「ん、聞こえてないかな」
私ははっとして、糸を掴んで導かれるままに光の方へと上っていく。

「あ、聞こえます、こんばんは」
「よかった、こんばんは」
光に辿り着けないことは知っているけれど、電波で繋がれた糸電話で結びついている時間は私にとって唯一の救いだった。

「お電話誘ってくれて嬉しかった、ヨウくんの声聞いたらなんだか、寒いけどあったかくなってきた」
「それならよかった。僕も眠れなくて不安だったから、起きててくれて嬉しいな」
ハクちゃんは最近元気?眠れてる?」
「うん、まあまあかな。睡眠薬が変わったら悪夢ばかりみるようになっちゃって…。眠れてはいるのだけれど、毎日そんな感じだからちょっと眠るのがこわいかも」
「そうだったんだね…。睡眠薬は合うのと合わないのがあるからね、ハクちゃんに合う薬がみつかるといいな」
ヨウくんは電話をするたび、開口一番に私の体調について気遣ってくれる。それはまるで病院の診察のようで、話の通じない無愛想な主治医と比べたら、ヨウくんの方がよっぽど精神科の先生だと思う。けれど、本当に心配なのは私ではなくてヨウくんの方だ。

「ヨウくんは最近、どう?」
「どうだったかなあ、記憶が全然無くてよくわかんないけど…だいじょうぶだよ。仕事はたいへんだけれど、楽しいからたぶんだいじょうぶ」
だいじょうぶではないことを私は知っている。彼は優しいから私に心配をかけないようにと、嘘をついているのだ。事実、彼は普段うまく眠れないことをSNSに呟いているし、私の数倍の量の睡眠薬を毎日服用している。

私はある程度大学には出席できているし、本当に心配なのはヨウくんだ。そんな状態の中でも、ヨウくんは私のことをいつも気遣ってくれていて、私もその救いの手を掴んでいる。それにもかかわらず、私はヨウくんの心の拠り所になれない。無理に話す必要もないのだが、私の手をヨウくんは掴もうとしないことがひどくもどかしかった。

私は無力だ。

「それでね、資格を取ることにしたから少しずつ勉強がんばってるんだ」
「わあ、とってもえらいね」
「試験を受けてみようって思えたのもヨウくんのおかげだよ。だから、ほんとにありがとう」
「そんなことないよ、頑張ってるのはハクちゃん自身だから、ちゃんと自分のこと認めてあげてね」
「えへ、ありがとう、あったかいな」
「ね、世界もこれくらいあったかかったらいいのに」
「うん、そうだね。もしそうだったら生きやすいだろうなあ」
他愛のない近況の話を1時間ほど続けたのち、ヨウくんが「少し眠たくなってきたかも」と言ったので、電波越しに眠ることにした。明日は朝から講義があることを隠していた私は少し安心しながらも、眠りについてしまえば平穏な時間は終わりを告げることが寂しかった。
暖かい布団の中で睡眠薬が身体にまわるのを待ちながら、彼のことを考えた。

彼と出会ったのは病院の待合室だった。降りしきる孤独という現実に耐えられなくなった私に声をかけられた、気の毒な人間がヨウくんだった。良かったら文通しませんか、これ住所なので。という私の押しかけ女房に最初は困惑した様子だったが、1ヶ月ほど経ったある日、散らかった郵便受けの中に手紙が入っていることに気づいた。
それから面と向かって喋ったことすらない彼との文通が始まった。文通は記憶と違って言葉が残るから楽しくて、彼もその様子だった。

何かあった時にいつでも連絡がとれるように、とSNSを交換した。交換してすぐ、彼の投稿している写真が目についた。どうやら、彼は被写体としてモデルをやっているようだった。そのことについて尋ねたとき、「僕は昨日のことも忘れちゃうから、それが悲しくて、形に残したくて最近はじめたんだよね」と話した。

彼の写真は、美しかった。
天国からやって来たのかと思うほど神聖で、そして、今にも天国に帰ってしまいそうなほど儚く、祈りを捧げているような佇まいだった。電話でそのことを告げると、彼はうれしそうに「ファン1人目だね」と言った。

そして、彼と何度も重ねた文通の中で、今でも忘れることができない手紙がある。いつでも読み返せるように撮った写真を、スマホから取り出す。その手紙はヨウくんらしい、細く丸い丁寧な字で綴られていた。

『いつかだいじょうぶになれる、なんて僕も信じられないけど、何もできなくても、がんばれなくても、大丈夫になれるって信じることは負けちゃだめじゃないかな、って思うんだよね。難しいこともわかってるから強要したい訳じゃないし、今は受け止められなくたっていいからね。
無条件の大丈夫ってすごく力になると思ってて、ハクちゃんが思えなくても、僕が大丈夫になれるよって思うことに意味があると信じてる。

僕もまだうまく信じられないし、情緒は不安定だし、だからといって他の人と比較して自信をなくす必要も無いと思うよ。ハクちゃんは苦しくてもひとりで頑張ってるんだよ、すごいことだからね。
周りの人がふつうに生きているようにみえるだけで、きっと僕たちには分からない部分でくるしさを抱えていると思うんだ。心無い言葉を吐き捨てる人がいても、そんな言葉こっちから願い下げくらいの気持ちでいていいからね。自分を大切にしてあげてね。
だいじょうぶじゃないことも全く悪いことじゃない。僕もここにいるからね。生きづらい世界だけれど、だいじょうぶになる過程でどんな幸せでもみつけたいね。』

光を見てしまった。言葉に一目惚れするような感覚だった。なにもない私を認めてくれた。暗闇で満たされた私と私の世界が一瞬で色付くように感じた。だから生きていてもいいのだとおもえたし、もう少し生きてみようとおもった。せめてきみに会うまでは。

実際、彼と会ったことは一度しかなかった。彼の就職先は北海道だったから、転院の手続きをするために病院に来ていた。病院どころか住んでいる場所すら離れてしまった。会う予定も立てていたが、お互いの体調が優れない日々が重なり結局一度も会えずじまいだった。

いつか、会いたいな。私を支えてくれた彼に、精いっぱいの感謝を伝えたい。
「しあわせだなあ。」
彼の寝息を頼りに、抱き合いながら眠った。

それはただの悪夢であってほしかった。朝、目が覚めてLINEを開いたとき、私は脳天に電撃が走るような、激しい衝撃を受けた。
彼のLINEは消えていた。

*

「ヒーローなんていなかった。」
細く、細く繋がっていた糸は、鋏でいとも簡単に切られた。

彼は他のSNSには浮上していたから、この世界でまだ息をしていることに安心しながらも、大学の講義はちっとも頭に入らなかった。頭の中を支配していたのは後悔と、自責の念だった。

私の身体から心だけが失われたような心地で、からっぽな一日を過ごした。
私と彼の間に亀裂が入ったのは、これがはじめてのことではなかった。私は、彼が思うより最低な人間だった。日々の苦しみを彼にぶつけるどころか、苦痛を彼のせいにしてしまうことさえあった。その度に優しい彼は「ごめんね。」と言った。
私の存在が彼の負担になっていること、見ないふりをしていたけれど、確かに私は知っていた。精神が不安定という言い訳では何も拭えないくらい、紛れようのない事実だった。

大学と自宅を繋ぐ電車で、きみのことを考える。きみは私に「いつか」の祈りを捧げていた。私はきみに「ずっと」の呪いをかけていた。きみのことを愛していた。恋かどうかはわからないけれど、確かに愛していた。
味のしない昼食を飲み込みながら、きみのことを考える。きみは私の、ただひとつの光だった。きみは揺るぎない私の正義だった。
食器を洗いながら、洗濯物を干しながら、きみのことを考える。きみがいなくたって私は生活をできる、でもきみのいない世界は、きみのいない私は何色?
いつの間にか散らかっていた部屋を片付けながら、きみのことを考える。きみのことを信じていた。きみは私の神様だった。
きみの名前は宗教だった。
手紙の写真とツイートのスクリーンショットが入っている、「かみさま」と名前がついたフォルダを読み返したら、くるしくなってトイレで吐いた。
「きみが存在しない世界で、私はどうやって生きればいいんですか。」

手紙を最初に送ったのはきみだ。私の手を掴んだのはきみだ。別れの挨拶くらいきみはすればよかった。
『永遠は、喪失でしか表現できない。』
同時に気づいたのは、きみに縋っていたということだった。わたしは気づかないうちにきみに依存していた。きみの手を私は離せなかった。掴んだはずの手が空っぽだったことに気づいたのは、きみがあまりに遠くにいってしまったから。
星は掴めないし、神様には会えない。あたりまえのことすら、私は知らなかった。気づかなかったことに気づいたのに、今日も私は手を伸ばして、光を掴む練習をしている。
あなたは私の光だけれど、私はあなたに光らせてほしかった。

*

神様がひとを救わないのは、意地悪なんじゃなくて、無力だったから。そのことに気づいても、だれかに光が届くように、手を合わせて祈り続けていた。

『優しさだと思い込み、嘘みたいな正義を身につけてしまった。やさしさが呪いに変わったような感覚。視界が波を打つ。それはあなたを苦しめ、僕の首を絞めた。でも、光の中にいてほしかったこと、ほんとうなんだよ。
その言葉は相手を思う言葉なのかな。 僕が救われたい言葉なだけなのかな。
本当のやさしさってなんだろうね。 あなたには守りたいやさしさがありますか。』

神様はひとよりずっと長い時間生きているから、たいせつな記憶をすぐになくしてしまう。知らないひとに信じられることが怖くなった神様は、ひとりで泣いていた。

『楽しかったこともきっと忘れます。でも辛かったことも、いつか、いつかは。』

*

いつの間にか眠っていたようで、時計の針は2時を指していた。満月だけが私を照らす真夜中、誰もいない住宅街でハイライトに火を灯した。
きみは神様じゃなくて、ふつうの無力な人間だった。人間だったから、きみは私の前から姿を消した。

彼は私が思っているよりずっと弱かった。自らを守るだけで精一杯だから、私のことまで守ることはできなかった。他人を守ることは、自分の身体の一部を捧げることと同じだ。
そして、彼は自分自身を救えなかったからこそ、誰かの救いになりたかったのではないだろうか。けれど、私は救われるどころか、彼を生きる理由にしてしまった。私のすべてを受け止められるほど強くなかった彼は、息ができないほど苦しい思いをしていた。優しい彼はきっと、私を暗闇から救えなかったことの罪悪感に今も苛まれている。

満月はしたたかに光を放っているのに、それはずっと遠くにあるように感じた夜だった。

*

1月4日(木)
「ヨウくんが消えてから2週間が経った。きょうは悲しくはないのに涙が出そうになった。何もなかったのに消えたいと思ってしまった。私だけが13月に取り残されたような気分だった。
現実を見ると私がいかに無価値な存在か教えられているようで、文字は頭に入らずに目から零れ落ちてゆく。それは流れ星を掴めなかったときの感覚に似ていた。私は、私であることから逃れられないと知っているのに、何かを望む意味なんてあるのだろうか。
こころの奥深くにずっと探しているこたえがあるような気がして、電子板を開いてみる。開くたびにわからないことだらけになった。私のことを探しているはずなのに、知らないだれかのことばかり知った。私の心臓はどこにあるの。私しかわからないことは、私がいちばんわからない。
私はきみのことしかわからない。」

*

病院に通い始めてから毎日書いていた手記の記録は、この日を境に止まっている。彼のことを考えるだけでくるしくなってしまうから、自分の気持ちを言葉にすることができなかった。依存と執着はよく似ている。私は彼がいなくなった現実を受け入れないことで、存在しない彼に執着し続けていた。
経験したことがないくらいの幸福と、経験したことがないくらいの苦しみを感じた冬。言葉も凍りついてしまうような季節は溶けて、桜は咲く日を心待ちにしている。

彼は溶けてしまった。けれど、私の心に彼がいた証は溶かしたくなかったから、勇気を振り絞って手記を開いた。開いてよかったと思うのは、その時の私は余りにも未熟で、幸せについて何も知らなかったから。
しあわせになりたい。そうは思うけれど、彼がくれた幸福が一瞬で消えるのは必然のことだったとも思う。
なぜなら、ひとりの人間である彼を、私は神様にしてしまったから。幸せとは、依存することでは無い。他者に寄りかかることでは無い。

神様とか天国と地獄とか、どことなく抽象的な世界はすべて現実から生まれたものだろうし、私はそう思っている。
もともと世界って、私の知っているものと同じくらいちっぽけなものだった。世界を広げていった人が地獄を見て、神様に出会って、天国を味わって、みんなが共感したから普遍的なものになってしまったそれは、個人的でかつ神聖なものだった。
幸せは絶対的な評価で、相対的なものではない。神様を信じている人は、依存先を指定している時点で幸せなのだろう、と思う。神様なんて抽象的なものじゃなくても、現実に存在する推しに偶像という「幻影」を被せて盲目的に愛することで満たされる、そういった方法で成り立っている人もいるだろう。

私は、そんな幻影が真実であることを願っていながら、幻影が虚構であることを知っている。
それは、不幸の後には幸せが訪れることを私は信じているから。幸福を信じる一方で、不幸が必然であることもまた知っている。ひとりに訪れる幸福と不幸の量が一定である、という考えは幸福量保存の法則、と名前がついているらしい。物心がついたときには既に私はその考えに至っていたけれど、「幸福量」という尺度そのものが主観的であるから、ある意味では信仰であるのかもしれない。だとしたら、私は幼いときから「幸福」というふわふわした感情のことを信仰していたのかもしれなかった。
信じることは恐れることではない。一番恐れるべきなのは、思い込んでしまうことだ。自らも気づかないうちに、視界が冴えないまま沼に引きずり込まれていくように。沼から抜け出せないことに気付いた時には、もう何もかも手遅れなんだ。

*

『永遠の幸せなんてないからね。花が咲いたら水をやってね、枯れたら捨ててね、おしまいだよ』
永遠の幸せなんて、どこにも存在しない。
それを知っていながら、ひとは永遠を求め続ける。異性の関係に名前をつけようとすること。ずっと一緒にいようね、なんて無責任な呪いをかけること。咲いた花が枯れるのは当たり前のこと。
私は不幸と折り合いをつけて小さな幸せを感じながら、もう少し幸せになれる私を探さなければいけなかった。

「じゃあ、私って?」
私はずっと純白な人間に憧れていた。色が撒き散らされた世界で白は、何にも汚されなかった一番美しい色だから。
けれどハクは、白にはなれなかった。私は生まれた時からずっと、白ではなくて空白だった。
空白は無色で、そのことが私にはとても恐ろしいことに思えた。なにもかもわからなくなってしまった私はいろんな色をつけて、気づいた時には既に濁って汚れてしまっていた。世界には、色が溢れすぎてしまっている。

永遠の幸せなんてないことを知っているから、ひとは一瞬の幸せを繋ぎ止めようとする。繋ぎ止められないことも知っているひとは、守りたいものに嘘をつく。
「またね。」
幸せのあとに、もう一度幸せが待っていますようにと、3文字の願いをかける。
幸せになることが怖い、という言葉の意味がわかったのはつい最近のことだった。幸せは一瞬で過ぎていくことを知っているひとの言葉。
『不幸にしがみついて、大切な何かを見失わないように。』

一瞬の幸せを知ったから、ひとは変わろうとする。大切な人を傷つけないように、間違えたことは間違えないように、正しかったことはおまもりにして。
変わったから幸せになれるかどうかはわからない。変わった結果、新しい幸せが待っているかもしれないし、不幸が待っているかもしれない。
でも、きみにもらった幸せはもちろん、苦しみや苦悩だって必然だったと、私にとって必要なものだったと今は思える。強さなんてまだまだわからないけれど、痛みなら少しは知ってるから、だから、だいじょうぶなんだ。
『今まで感じた、かなしい、くるしい、全てをひっくるめて生活を愛おしく思えたら、それはすごく幸せかもしれない。』

きみが幸せを教えてくれたから、私は一歩前に進むよ。例えその先が不幸だったとしても構わない。きみが溶ける前に、一人で生きていく覚悟ができたのは、きみのくれた言葉が私の心の中で光り続けていたから。
私は純白にはなれなかったけれど、綺麗に染められた白にならなれる。だから、桜が咲く前に海が綺麗なこの街を旅立つことにした。私の色を探す旅へと。

もう、糸を伝わなくたって前に進める。きみのきらめきは私の道しるべになっていた。
私の神様はきっと今も、私の幸せを祈り続けている。
流れ星が見えた。

「ヒーローだよ。」
ヒーローは、確かに私の目の前にいた。

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