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鉄の華(くろがねのはな)6

【星斗をつかむ】

 文政五(一八二二)年の年が明けると、筆まめな藤兵衛は江戸からの帰郷を知らせてきた。水が温む四月ごろ本人に先んじて、こもで巻いた大きなつづらが届いた。つけられた手紙には、「江戸での成果につき屋根のあるところで丁寧に保管するように」との指示があった。

 もともと江戸への出府は、藤兵衛が直接彦根藩から二百匁(口径五〇ミリ)玉大筒の注文を受けたことが発端だった。鉄砲の注文は、幕府からにせよ彦根藩からのものにせよ国友村の年寄を通すことが定めで、その取り決めを破っての発注だった。実際、年寄は有名無実となっており、彦根藩としても、仕様や価格など直接相談できるほうがよかったのだろう。

 毎年沿岸には外国船が来ており、海防が大きく叫ばれていた時期であったのもその背景だ。これが縁で藤兵衛は彦根藩御用係を申し付けられることになったのだが、そのことが村を牛耳る年寄たちの逆鱗に触れた。年寄たちは、自分たちを通していない注文は受けられないと彦根藩へ申し入れたたものの、受け入れられなかったため次第を江戸の鉄砲奉行へ送った。このことを知った彦根藩は憤り、藤兵衛以外への発注と彦根藩内への出入りを禁じた。これにより国友村は藤兵衛なくしては立ちいかなくなってしまった。

 加えて、文化一二(一八一五)年に年寄、国友助太夫、斉治が、翌年に証人として藤兵衛が江戸の奉行所へ呼び出され、吟味が行われることとなった。この事件は文化一四年に助太夫、斉治親子が揚屋あがりや(牢屋)への収監でお手打ちとなった。

 ところが、江戸の水が合ったのか、沙汰が出てからも藤兵衛は江戸に居続けた。もちろん、各地の藩主が年替わりで常駐するため比較的会いやすく、そこから注文を取ったり、多くの職人・知識人と交流をしたりするなど精力的に動いていた。その期間は七年間にもわたった。



「ただいま戻りました」

 大きな声がかかって、作業場の扉が開くと藤兵衛が顔を出した。作業を停めてそちらに目をやる。七年ぶりということもあってか髪に少し白いものが混じっていたが、まごうことなき藤兵衛だった。髷の形が、この辺りでは見かけない形なので、あとで「坂東かぶれ」したとからかってやろうと思った。

「佐平治、作業中だったか、すまなかった。つづらは届いていたな」

「ああ、家の方にある」

「つづらと一緒に帰りたかったが、気砲の件で加賀に寄らねばならなかったゆえ。ひと段落したら、母屋に顔を出してくれ」

 気砲とは、空気銃のことで、この江戸での滞在中に舶来のものを参考に藤兵衛が作り出したものの一つだ。種子島(火縄銃)の発注は下がっているものの、江戸で、あちこちの藩からこの気砲の注文を貰ってくれていたため、国友村に少しずつ活気が戻ってきていた。

 夕方、いつもよりも早じまいをして母屋に向かうと、藤兵衛が子供たちにつづらから出したものを見せながら、江戸の土産話をしているところだった。藤兵衛は、こちらを向いて、「飯も食っていくだろう」と尋ねた。うなずくと、台所の方に消えた。

 近く、藤兵衛の帰村が分かっていたためだろう。食卓は、鮒ずし、鯉こく、うなぎの塩煮をはじめ山海の豪華なものだった。

(長浜ものがたり大賞2018に投稿したものを改稿)

                           (続く)

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