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炎城(えんじょう)4

「……申す……」

 遠くで声が聞こえた気がした。

 天正十年の坂本城だ。

 子の刻を過ぎ、このような夜中に正面から来るものなどいるのか。耳を澄ます。

「お頼み申し上げる」

 野太い男の声だ。

 総門へ回ると、再度呼びかけの声がした。

 横の通用門を開けると、二頭の馬を引いた一人の老爺がいた。包囲する敵の大将・堀秀政その人だった。

「久しぶりでござるな。秀満殿」

 荒木村重の討伐の折には、秀政の率いる鉄砲隊に随分と助けられたものだった。

「何用でござるか」

「血を流さずに、この天下の名城と名高い坂本城を明け渡す気はござらぬか。秀満殿がこちらに籠っているとのことを聞き及び、知らぬ仲でもないため、こうして単騎願いに参じた」

 波の音が静かに聞こえる。比叡山の向こうに朧な半月が見えた。

 まさかの直談判だった。しかし、殿の強い思いを偲ぶに無血開城が得策なのか、心が揺れる。秀政は続けた。

「光秀公は、本日夕刻に小栗栖で討ち取られたと聞く。首級(くび)見分は済んではおらぬようじゃが。今、城を開け渡せば、悪いようにはせぬ。中に兵はもうおらんのだろう」

 そこまで分かっているのか。近江のあちこちに豊臣方の斥候が潜んでいたとみえ、こちらの動きは筒抜けだった。そういえば、堀秀政は豊臣秀吉の後に、長浜城を任せられた武将だったと思い出した。

 ここで敗れることは仕方がない。しかし、殿の収集された名品逸品を灰にしてしまうことに強い抵抗を覚えた。

「しばし待たれよ。渡したきものがござる」

 そのまま城内へ取って返し、集めておいた名品に加え、蔵や天主をめぐって乙御前の釜などの茶器、不動国行などの名刀、そして牧谿の掛軸などの水墨画を集め風呂敷代わりの肩衣に詰め込んだ。

 半刻はかかってないだろう。その足で再度総門の外に出ると、先ほどと変わらぬ格好で秀政がいた。片手で重みを感じる包みを渡す。

「これらは我が殿・惟任日向守光秀様がお集めになった天下の名品。秀吉様にお渡しし、後の世に伝えていただきたい」

「では、坂本城は明け渡すと言うことじゃな」

「否。これから火をかけて、拙者は切腹する所存にござる」

 秀政は少し驚いた顔をしたものの、鬚をなでて応える。

「奇特なお考えじゃ。承知いたした。火が消え申したら骨を拾ってしんぜよう」

 そう言いながら、しばらく縛って袋状にした肩衣の中を覗き込んでいたが、顔を上げて問うた。

「確かに名品揃いじゃが、倶利伽羅の脇差がござらぬな」

「あの脇差は、殿が後生大事にしておられ、某(それがし)に下賜されたもの。腰に差して自害し、あの世の殿に届ける所存でござる」

「承知仕った。秀満殿、おいくつになられるか」

「四十七になり申す」

「分かり申した。これらの名品とともに、その行いと最期を後世へ語り継ぐことにいたす」

 手綱を渡しながら続ける。

「この馬は餞別じゃ。万が一入用であれば、いかようにもお使いなされ。腹を召すことのみが、果たして光秀殿の意を酌んだものかどうか」

 そのまま鹿毛の一頭を残し、もう一頭に騎乗して踵を返した。これで無用な戦は避けられたと考えてよかろう。

 そのまま野に放つわけにもいかず、馬を連れて城内に戻り、当初の予定通り三カ所に油と火をかけた。すぐに火が回るのではなく時間をかけて、城が崩落するように考えたものだ。馬は城が焼け落ちることに巻き込まれないよう、少し南に離れた湖岸の松につなぐ。

 天主へ戻り、略式になるのもやむを得ないと、装束を着替え、脇差を腰に帯び、両肩を脱ぐ。ここも早晩炎に包まれるだろう。

 太刀に布を巻いて右脇腹に刺そうとした瞬間、湖に向いた窓枠に、音を立てて矢が刺さった。

「敵襲か?」

 秀政は約束をたがえるような男ではないし、湖側に布陣はしていなかったはずである。ゆっくり立ち上がり、外を見ると、一艘の丸小舟が沖、半町(五十五メートル)ほどのところに浮いている。船尾にはかがり火が焚かれ、船上の人物がこちらを指さしていた。

 その指先、手の届く位置に刺さった矢には、文が巻き付けられていた。

「矢文とは古典的な」

 口にしながら開くと、乱れた墨文字で、「舟へ来られたし」とのみ書かれていた。

 しかし、文の末尾に添えられた花押は見覚えのある光秀様のものだった。
再度舟を見やると、くたびれた服を着た男が手を上げていた。

「殿だ」

 少しずつ火の回りつつある坂本城のすぐそば、暗い湖上でも見間違うはずがない。急いで外に出る。城のすぐ裏手は、湖岸に石が積んであり、小さな港のようになっている。しかし、ここまで船を寄せるつもりはないようだ。渇水期で水位が下がっているためか、不意の敵襲を警戒してのことかは分からない。

 手紙の真意は、ここまで泳いで来い、ということだと気付くのに少しだけ時間がかかった。着の身着のままで、湖岸へ出て、そのまま水に足をつけようとして、思い出した。馬だ。

 秀政にもらった鹿毛の馬は、松につないであった。急ぎ、そこまで走り、騎乗して、そのまま湖に入った。

 梅雨前の渇水期とはいえ、丸小舟が浮いている辺りの水深は、一間(一・八メートル)は下るまい。それでも、馬の助けを得て、何とか舟のところまで辿り着いた。

 舟の上から差し出された手をつかむと、力強く引き上げてもらえた。
せき込みながら、小さな舟板の上に転がり込んだ。引き揚げてくれた人物が、聞きなれた懐かしい声で言う。

「左馬之助、わしじゃ。ここまでよく戦ってくれた。礼を言う。しかもお主、金づちじゃったの。すっかり忘れておった。よくぞここまで湖水を渡ってまいった」

 顔に巻いた手拭いを取って現れたのは、先ほど堀秀政より死亡を伝え聞いたばかりの殿だった。

「殿。よくぞご無事で……」

 それ以上声が出ない。

 「いま、湯を沸かすゆえ、息を整えよ」

 丸小舟のへり越しに、湖岸へ向かって泳ぐ馬の耳が見えた。殿もそちらへと視線をやっていたが、懐から自身が着ているのと同じようなくたびれた服を出した。同じ格好をしろというのだ。

「そのままでは、遠目からでもすぐ武士(もののふ)とわかる。これに着替えよ。左馬之助の下手な火つけでも程なく、城は崩れ落ちる。その前に東国へ下るぞ」

「どういうことですか」

「家康と話をつけてきた。表立っては動けんが、秀吉に一泡吹かせてやろうぞ」

 離れた城が炎に包まれ、少しずつ火が強くなり舟の上まで熱気が届くようになってきた。

「朝には、すっかり焼け落ちているじゃろう」

 燃え上がる天主に照らされて湖面が赤く光る。殿が櫓を漕ごうとしたので、代わりを申し出た。舟上で体を入れ替える際に「矢橋を目指せ」と言われたので、左手に三上山を見る航路を取った。

 そして、気になっていたことを問う。

「殿が心血を注いでおつくりになった城に火を放ち、お集めになられた名品、逸品の数々を先ほど堀秀政に……」

「かまわん。しかし、これは残った」
 そう言って、拙者の腰辺りを叩いた。そこで、気付く。腰に差していたのは、昔殿から直々に賜った倶利伽羅の脇差だった。

「名品には、生きていればいずれ出会おう。城は、天下が平らげられた暁には、今のように戦に役立つものから、国を統治するものに変わっていくじゃろう」

「これからどちらへ?」

 渡された着物に着替えながら問う。

 山の端にあった半月が、中天に差し掛かり、湖上に姿を落としていた。波のない湖面を二人を乗せた丸木舟がゆっくりと東へ進む。

「伊賀を通って、駿府へ向かう。明日からは二人とも髷を落として、遊行の身じゃな。法名だけは考えてある」

 櫓をこぎながら、続きに耳を傾ける。

「人と金と運に恵まれた男に勝つには、もはや空と海のように大きな存在しかない。残念ながら、空海という法号は、古の立派な名僧が付けている。したがって、空よりもさらに大きな天、『天海』など、どうじゃ。わしが死んだら主が継げばよい」

「つまり、ここで光秀様とその侍大将・明智秀満は死んだと」

 殿が小さくうなずく。

「儂に残されたのは、この茶碗と左馬之助だけじゃが、何とかなろう」
 殿は、懐から青磁の茶碗を出し、舟の舳先にしつらえてあった七輪の上から沸かした湯を注いだ。そして、慣れた手つきで茶を点てて言葉をつなぐ。

「まずは、一杯飲め。すべてそれからじゃ。急いては事を仕損じる。急がば回れじゃな」

 ちらりと湖の南、落とされた瀬田の唐橋の方に視線をやって、不安定な船上をものともせず、まっすぐに船尾に来て茶碗を渡す。

 それを両手でいただくと、入れ替わりに殿が櫓を受け取って漕ぎだした。少しずつしかし確実に炎の強まる坂本城が小さくなる。

「ずいぶん昔に松永久秀が言ったように、考えようによっては、これらに我々が選ばれたんじゃな」

 口に運ぶと、熱い茶がのどを通り抜け胃に落ちた。それだけで、少し落ち着く。心根が定まると、急に笑いが込み上げてきた。幾日ぶりだろう。何より殿が生きておられる。少なくとも、すべてを失ったわけではない。

「馳走になりました、天海御坊。それでは参りましょうぞ」

 気の早い暁烏の鳴き声が、朝靄が出始めた湖上に響いた。

(滋賀県文学際に投稿したものを改変)

                          〈了〉

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