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白刃4

【蝦夷】
 あの日から38年がたった。

 年号は明治に代わり、日本は急速に海外に向けて門戸を開いた。江戸は今や東京となり、天子様も京都から移られてずいぶん経つ。彦根藩は彦根県となり、その後滋賀県へ編入された。

 松前屋で下積みをしたのち、口利きで同じ近江商人の柏屋という海産物を中心に取り扱う店に雇われた。京や大坂への荷物の売込みの仕事からは外してもらった。代わりに北海道の津々浦々で、ニシンやコンブなどアイヌの人たちの協力を得て漁を行っている。

 この30年で大きく心が動いたことは二つ。一つは一緒に仕事をするアイヌたちの世界観だ。

 最初は全くアイヌ語が分からなかった。しかし、若い世代が和語を覚え始めてくれたおかげで随分と分かるようになった。といっても、明治も30年代になると、多くのアイヌたちとは普通に会話ができるようになっていたが。

 何より影響されたのはその世界観だ。永らく一緒に仕事をしているが、動物をはじめ周りの生きとし生けるものすべてに魂があると考え、祈り、歌い、踊る。それに魅了された。

 例えば、狩りで弓を使ってウサギを射たとする。我々の考え方なら狩りの実力があってそれでウサギを射止めたのだとするのだが、彼らの考え方は違った。ヒトよりも大きな力を持つものすべてをカムイと称し、その力に敬意を払った。ウサギの場合は、たまたまウサギのいるところにカムイの力によって矢が導かれたのだとするのだ。彼らは死んでも滅せず、神の国へ帰るだけだと考えていた。

 大恩ある藩主の敵を討った。そのことについては全く後悔の念はない。しかし、誇らしさは、年をへるごとに摩滅していった。

 うまく宿願が果たせたのは、多くの人の助力があったればこそだったが、それ以外にアイヌのいうカムイの力もあったのではないかと思う。しかし、これだけの年月が経って自分のしたことがどれほどの影響を与えたのかは定かではない。

 二つ目に大きく心が動いたことは、弟、小西寛蔵のことだ。

 私が彦根を出た時は、まだ元服もしていなかったが、その後司法大臣や衆議院議員を務め、近江鉄道の初代社長に就任し、民間の力を集結して彦根から八日市、伊勢にまで線路を伸ばす計画だという。今は改名して大東義徹という名前だが、新聞や近江商人から伝え聞くその姿はあの時の面影を残している。

 明治32年の秋、柏屋に男が訪ねてきた。松前屋に訪問して、こちらを紹介されたという。

 私はといえば、小樽から帰ってきたところで、柏屋に着くなり座敷に客が来ていると番頭に呼ばれた。

 襖を開けると、そこには洋装で眼鏡をかけ立派なひげを蓄えた男が正座をしていた。随分と、なりが大きい。こちらを一目見るなり立ち上がって、

「兄さん」

と駆け寄ってきた。

「寛蔵……」

 それ以上の言葉は出せなかった。胸に去来する思いが多すぎて、言葉が追いつかないのだ。何とか絞り出したのは、「どうしてここを……」だけだった。

 現役の司法大臣が単身でこんなところに来るのも驚くことだが、厳重に秘したはずの足跡を訪ねてこれたことも不思議だった。ここに至るには、信頼できる使用人をやって話を聞かせたこともあるのだそうだが、元彦根藩士の老人が突然やってきて、蝦夷・松前にいる私のことを教えてくれたのだという。

 その夜は久しぶりに酒を飲んだ。ようやく弟と枕を並べてのべた床に就いたのは明け方、太陽が昇る前のことだった。


(滋賀県文学際に投稿したものを改稿)

                             〈了〉

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