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【総集編2】 魂までは奪わせない

旅の総集編の第2回目です。

前回「旅はお金で買えるのかい?」では、主に旅の費用を振り返りました。旅の全支出を記録し、様々な切り口から集計&考察を加えるという離れ業をやってのけました。是非ご一読を!と自惚れてみれば。

うーん、いいんじゃない?でも、はっきり言って情緒がないよね。情緒が。旅ってそういうことじゃないから。誰が何にいくら使ったとか正直どうでもいいんだよね。そんなことよりさ、たまたま出会った誰かと話した何気ない一言にハッとしたとか、ふと垣間見た現地のリアルな情景にビックリしたとかさ、そんなのが聞いてて面白いわけよ。そんな風に、お金じゃない価値に気付いて世界が広がるのがいいんじゃないの、と君は言うかしらん。

なかなか言うてくれるやないかー。ほなやったろかいと、いざ情緒に全フリ、聴衆も置き去り、聞きさらせ震える心のラプソディを。
題して、あ、上に書いてたわ。

Oh, それはなんて曖昧な Yes

さて問題です。長期休暇明けに海外旅行から戻ってきた人がいたとします。彼ないし彼女に「どうだった?」と聞けば、高確率で「よかったよ!」と返ってくることでしょう。きっと僕もそう答えるでしょう。では、この答えは本当でしょうか?

はい、ありがとうございます。正解です。(多分)
答えは「よくわからない」です。

■概説
まず前提として、何かしらの出来事が「100%完璧に良い」と感じることは、個人的な肌感覚としてピンと来ない。どうしてピンと来ないのかと言えば、それは根底に「何かを絶対的に信じる怖さ」があるからだと思うが、もう少し単純にも、100%は無理じゃない?100%のいい人、100%のいい物件、100%のいい会社。無理じゃない?

だからきっとこの「よかった」にも多少のタテマエなり嘘なり、幾ばくかの「よくなかった」も混じっていることになる。

では次に、そのよかったが95%なのか、65%なのか、それとも30%なのかを考えれば、「過半数は越えているから」で良かったと言う人もあろうし、「ほんの少しでもよかったことがあったから」良かったと言う人もあろう。言わば「ひっくるめてよかった」わけで、嘘ではないが、必ずしも本当でもなさそうで、それじゃあ「よくわからない」んですよね。

というわけで、この記事では、ともすればこんな風に、ひっくるめられてしまって多くは語られないかもしれない「よくなかったこと」を主題にする。

-------- 以下余談 --------

もしお暇な方は、上記のような信用ならない「よかった」を「曖昧なYes」と呼び、ちょっぴり穿った見方で紐解いてみる、という以下の100%の余談を読んでみて下さい。Otherwise, 本編までいそげ!

100%の余談(飛ばしたっていいんだよ)

この曖昧なYesを疑いの薄目で眺めれば、「聞く側への忖度」「自己肯定の罠」の影が見えるような気がする。言い換えれば「相手用の嘘」と「自分用の嘘」がある。さらにおぼろげながら、その境界のぼんやりしたところ。相手のためでも自分のためでもあるような、或いはどちらのためにもならないような、嘘とも何とも言い難い「留保の間(ま)」がある。

■聞く側への忖度(そんたく)
いくら自分に正直でありたいと願っても、どこでどう学んだのやら、相手の受け入れ可能余地に応じて、語る側の情熱のお湯加減(本音の出力調整)は半自動制御でかかる。良く言えばサービス精神。For you感。悪く言えば効率的な捌き、といったところ。

例えば、「全く興味はないれど、興味を示したことだけは示したい」なり、「とりあえず、いいね!いいね!と、何でも承認しあいたい」なり、そんな気配を察知した暁には、相手の期待に沿う最も差し障りない短文でおもてなしを。棒球が来たらコンパクトにセンター返し。

「どうだったー?」「あ、良かったです!」「そっかそっかーよかったね」「はーい」それじゃお疲れ様です。共感の呪縛。こんな茶番のシチュエーションもあらんかな。

■自己肯定の罠(自己正当化バイアス)
こちらはシンプル。せっかくお金と時間を掛けた旅が「正直大したことなかった」とは言えないよね、容易には。ということ。抱かれた男は、いい男。入った会社は(多少ブラックだろうが)いい会社。あそれ、それそれ!

「どうだったー?」「あー、なかなか良かったっすね」「そっかそっか」(後略)

留保の間(ま)
中高生のように自分の感覚に正直に。これはおもろい。あれはおもんない。バッサリ一言で片付ける。それが清潔な態度だと聞く。ただ、その正直さを犠牲にしても「影響」を考慮した立ち居振る舞いを検討する(ポジショントークから逃れられなくなる)ようになれば、少なからず歯切れは悪くなる。狡猾な芝居が上手くなる。

もう少し嫌な言い方をすると、相手の態度(ポジション)が明らかになるまでは、自分のそれは明らかにせず、どちらに出ようと上手に対応出来るようなるべく「柔軟に」進めたい。この卑怯者めー。否定されたくないのか、受け入れられたいのか、或いはその両方か。それは弱さとも、交渉力とも言えようか。

ここに登場するのが、「はっきりした意思表示はまだしたくないけれども、とりあえずあなたの言葉は受け取りましたよ」のお返事だけを示すセリフ。英語なら、何かの質問に答える時の、接頭語のWell...に近いだろうか。

「どうだった?」「おー、よかったよー(Well....)」「そうなんだー」(後略)

その後に続く相手の言葉や表情に温度を探り、いい塩梅にトークを展開しようじゃないのと。そのための間が欲しいぞ、留保の間が。そんなYes。

※補遺 この留保の間、に漂う嘘っぽさをも少し減らすと「そうですねー」になる気がする。個人的にこの「そうですねー」はちょいちょい使っている気がするな…。

というわけで、もしその人が「よかった」と言ってたとしても、その純度は100%ではなく、何かしらのタテマエや嘘が混じる、ないし、まだ明確にスタンスを打ち出していない等のケースも(恐らくはそれ以外も)あるため、どれぐらい本当かは「よくわからない」でした。

余談を終わります。

曖昧にもやっとした部分

というわけで、今回の総集編では、この「曖昧な」部分に光をあてて語りたい。「旅が楽しい」ことに異論はないけれど、その前にいくらか省略されたかもしれない(なんだかんだで)の部分。喩えるのなら、ちょっと離れた音楽室からキレイな合唱が聞こえてきた時に、その途中で減衰して消えた(若干名の音痴)の話をしたい。そういう動機でこれを書きます。

いけますかね。ではいきます。

-------- 以下本編 --------

リアルは勝手に充実しない

「なんかええことないかなぁ」
旅の動機にも通じるこの心の声は、旅先においてもまた出会う。自分に意味のある言葉は、その人生で何度も出会う。とどこかで聞いた。

はてな。心のつぶやきを頭でなぞって思う。ええことってどこにあって、どうやって出会うんやっけな。よくわからんな。とりあえず、シャワーでも浴びるか。ほいで今日は何をしようかな。そんな旅の日々。

当時は無考えだったが、旅の経験を分解すると、以下になる気がする。

(出来事)▶(観察)▶(解釈)=(経験)

ざっくり言うと、旅先での非日常的なイベント(出来事)をキッカケに、何かしらの変わったところを五感で捉えて(観察)何かしらの自分の内側に持っていたものと打ち解けあって(解釈)これは大変面白かった(経験)と味わう、というような流れ。

ひとつの例として、トップ画のキリンの写真をご覧あれ。

例.)トップ画のキリン(死骸)
ケニアのサファリで僕が一番感動したのは、ゾウの家族でも、雌雄のライオンでも、狩りをするヒョウでも、佇むハイエナでもなく、実はこのキリンの死骸だった。死後どれぐらい経ったのか。斑点のまだら模様がキリンだったことを語るが、この命を落とした亡骸(なきがら)は、今や落ち葉や木の枝と変わらず、死んだその場でただ朽ち果てるのを待っている。

道端に死んだままのキリン(出来事)をキッカケに、ここでは誰もその死骸を片付けず、あのキリンも死にっぱなしやな(観察)と見れば、自然界での「死」はキリンも葉っぱも同じで、自分が感じていた命の価値とは関係なく平等なんやな(解釈)と感じました、と。例えばそんなこと。

てな具合に、まずはシンプルに。新しい出来事が新たな発見と解釈に繋がり「ええこと」になるパターンがありそうだ。

■方針① 「新しい出来事」を計画する
おっけー、それなら話は簡単や。過去の経験もベースにしつつ、面白そうなこと、興味持てそうなことを色々やってみるってことでええんよな、と。

(出来事イマココ)▶(観察)▶(解釈)=(経験)

そんな風に、来る日も来る日も、自分の「ええこと」に繋がりうる「新しい出来事」の試行錯誤が続く。リアルは勝手に充実しない。今日何をするか、明日何をするか。面白かったか、つまらなかったか。その繰り返し、その、繰り返し。旅の目的が「楽しむこと」なれば、それ以外に特にやることもないじゃない(と言うと、どこか空虚に響くのは何故だろう)

とは言え、それは別に難しいことじゃない

「新しいこと」には日々出会う。なにせ異文化、異教徒、異国の地。犬も歩けば棒にあたる。心のココ掘れワンワン。手なりでやっても不思議の毎日。あっぱれ、さすがは非日常と。

それに何より

一人旅には、自分が決めた道をゆく充実感とリアリティがある。旅がくれた限定的な時間・空間に描きうるフリースタイルに淡い可能性が広がる。色々やってみたらよろしやないの。新しい町で、新しい風受けて、新しい何かを好きなように、と。

自分は何でも出来るんじゃないか。

意気揚々と闊歩するその後ろ。ひっそり「決断疲れ」「ワンパターン化」の影が忍び寄る。

▶決断疲れ
おっしゃ、今日は何をしよっかなー!そうや、これをやろう、そうしよう!という意思決定の連続は「自分が選んだ今日」という充実感やリアリティをもたらしてくれる。ただその緊張感は10日は持っても、3ヶ月は持たない。「あー、もう誰か適当にいい感じにやってくれへんもんかね」という倦怠感を抱く日が来る。全部が全部、自分で決めるんしんどいな正直、と。
▶ワンパターン化
さて新しい町に到着、おつかれさん。まずは宿にチェックイン。さてさて、ここには何があるのやら。ちょろっと旅の情報調ぶれば、あたるは寺院、仏閣、美術館。なるほどそうかとプランを練ったり、巡ったり。腹が減ったらひとやすみ。どちらにしようかランキング。ほどよく味わった気がしたら、だいたい見たから次行こかと。満足してないわけじゃない。ただ明日にも忘れそうな「無味無臭」の思い出達よ…。これが個人旅行っちゅう名のセルフパッケージツアーってか。
この2つの傾向は、仲のよい兄弟みたいなもので、疲れてくる(兄貴)と、ひねりがなくなり、いつものパターン(弟分)が寄ってくる。一人旅において「疲れたら休む」は鉄則だと思う。たとえそれが、どんな状況であれ。

唾棄すべき、食べログ3.5の旅。誰かがたくさん行ったとこの「よかったー」に流れるだけの旅かいな。人気がある場所に「俺も行った」と言いたいだけか。アリバイ工作に躍起になるな。スタンプラリーに終始するな。それは誰のための旅なのか。やめてまえ。段々、ややこしくなってくる。

恋愛で言えば、付き合い始めのトキメキの麻薬が切れはじめてからの違和感に近いところもあるのだろうか。アレおかしいな。何かちゃうな。何が好きなんやっけ。何がしたいんやっけ。そしてひとつ気がつくことには。

長期の旅は意外と退屈でめんどくさい

一体どこから何が変わったか。

人には「どんな環境にも慣れる」才能がある。その才能を前にすれば、旅先の非日常(刺激)にもだんだんと慣れてくる。言い方を変えると、パターン認識で「新しいこと」が減ってくる(ように感じる)

さらには「新しい出来事」の計画も「自分なりというワンパターン」に嵌まりだす。セルフパッケージツアーの予定調和感。ある程度、自分の中で完成した「いくつかの遊び」をその場に応じて使い分けるようになったりして、同じ方法論を違う環境に当てはめている。

ぐいぐい追い上げる慣れに、新たな刺激を求める、いたちごっこ。
長期の旅は慣れと刺激の戦いなのか。これでは長持ちしやんなと。

多分、ランキング自体が悪いわけでもなんでもない。お前が何をしたいか考える時の、その「出来事」の選択肢をくれるのが、群衆の叡智たる口コミの良さというもの。それをチミは楽しく味わうことに失敗しているんじゃないのかね。

となると、自分の「出来事の計画」に頼る以外の方法も考えたいところ。

■方針② 違う「視点」を借りる

(出来事)▶(観察★イマココ▶(解釈)=(経験)

どこをうろつき何を見たとて「自分というメガネ」でしかモノは見れない。もしそれが退屈に感じるなら、それはメガネの度が悪い(観察出来てない)か、曇っている(解釈が代わり映えしない)せいだろう。

では、この「マイメガネ」をどうにかする方法はないのか。

旅は道連れ、世は情け

「全部自分次第」のコダワリが、視野を狭めてしまっていたのではないか。出来事の観察や解釈も、「自分なり」で閉じていれば、変化もつきづらい。変化がないから飽きるんじゃないのかと。

一人旅もずっと一人では出来ない、ということか?

ほな何と交わりゃ、も少しはいい感じになるんやろかしら。自分と遠いものがええんかな?人よね、多分人。望むらくはきっと、その場の人。

ローカルピープルとはそう簡単に馴染めない

出来ることなら、観光として整備されてパッケージ化された商品を消費するのではなく、その現場にある生身の人との出会いを通じた世界を、リアリティを見たかった。それがきっと「マイメガネ」を磨いてくれるんじゃないか、そんな期待もあった。

ただ、方法がわからない。ローカルピープルとの出会い、ローカルとの出会い、要は出会いか、出会い。なるほど。望むらくは異性の方がいいか。それはそうか、それはそうやな。ならクラブに行けばいいんじゃない?

と、いうことで!(待ってました!)

慣れぬクラブ活動がはじまった。なるほどなるほど。これはよくわからん。実はそんな洋楽知らんねよな。誰への気遣いか「これまでの自分」との一貫性の崩れも気になる。賑やかなところに一人来たとて所在もない。陽気めの演出混じりの笑顔も疲れてきた。あっさり萎えるマイハート。

誰に声をかけるでもなく、寄せては返す波のように行っては帰り、行っては帰り。いつどう諦めたのやら。多分は忘れるかのように。うまいことできないうちに有耶無耶の幽霊部員。多分コレじゃなかったのだろう。

旅の日々のイベントに受ける刺激の中で、慣れながら鈍麻していく「何か、心底面白くはないかなー」という解せない気持ちや感覚を「考えたら恵まれた時間よなー」とか、まるっこい言葉でうっちゃって日が過ぎる。

それでも春に風が吹くみたいに、ええことはふっと訪れる

脈絡もなくコントロールもできない

中国は蘭州(Lanzhou)の町中のレストランで出会ったローカルピープル。たまたまお昼をご一緒させて貰う流れになったあくる日も、彼女は早起きをして、宿まで迎えに来てくれて、僕を夜遅くまで連れ回した。観光の域を軽く凌駕した経験を与えた上で、さも当然、とばかり1元たりとも出させて貰えなかった。
彼女はただ「Welcome to China. Welcome to Lanzhou」と言った。

なるべく宿代を倹約したい旨伝えれば、これはという場所を探してくれる。とても自助努力では届かない深さに旅をする。そうやんか、これやんか。たまたま出会ったヒトという事実が、旅情をぐっと高める。

出来事※偶然)▶(観察▶(解釈)=(経験)

「偶発的な出来事」が、自分の枠から抜け出す機会を与えてくれた。自分で選ばないことが、可能性を拓いたのか。あれこれ一緒にご飯を食べて、訳のわからん観光地を案内されて、変なイカダで寝そべって空を見た。

翌日以降も勢いそのままに、その宿に居合わせた人たちと遊ぶ。外国人は僕しかおらず、言葉もわからぬままに彼らの遊びに混ぜてもらう。やんやと楽しみ、最終日はそのうちの一人に最寄り駅まで送って貰って……。なんともいい思い出が出来たなと。

これってめっちゃ難しくない?

ただちょっと通りかかった行列のレストランで順番待ちをしてみた時に、ローカルピープルのあの子が「よかったら一緒に食べますか?」と言ってくれたことに端を発するのだから、こんなもんどうしようもない偶然やないか。あー、あれはホンマによかったなーと振り返って思うだけ。

どう捉えていいかわからない

ほなもう、自分の出来ることでなんか出来ることはないんかい。
あるであるで。

出来事)▶(観察▶(解釈★イマココ)=(経験)

方針③ 些細な事柄に、意味を見出す

旅の中で触れた・気付いた事柄が、何かしらの自分の内側に持っていたものと打ち解けあって意味を見つける。それが解釈の力。いい感じ。頼みの綱。心配やけど、君に頼む。

おっと、打ち解け先がおぼつかない。もっと勉強しといたらよかったなー。歴史とか文化とか。多分そういうことだけでもないんやけれど、少なからず何かの足しにはなったはずじゃない。

「自分なり」に物事を捉える土壌をどれだけ肥沃に出来るかは、それまでの人生の過ごし方に依るのだろう。すぐにどうこうなるものではない。

じゃあアレちゃうんか。今ココにそれがなかったとしても、見たもの・触れたものを感じながら、育てていけばいいやないか。自分で見たものをして、物事を捉えていくってきっと素敵なことよ。

確かに、それはそうかもしれない。でもその、答えのないところに、意味を見つける難しさにぶちあたる。

僕は答えのないものをどう学ぶかをよく知らない

例えば、さっきのエピソードに戻って、鉄道駅に着いたところから。

ああー、いい子らやったな、と駅まで送ってくれた男の子と交換したWeChat見ながら思う。おや、えらい盛れた写真使うからまるで別人みたいやんか、と。てくてくてく。

ふーっと満足のため息などをついてる時に、あられ、異変に気が付く。財布の五千円札が1枚消えてるな。1万円札と5千円札と千円札が1枚づつあったのは覚えてたから。ん…マジか。何でや。えっと…えっと…!いつやっけ。どこやっけ。あの宿…やな。ちょっと待ってくれ、誰やねん…!記憶の中で、犯人探しが始まる。

最後に「ありがとう」と重ねた宿のオーナーの笑顔に違和感はなかったか。夜市を回ろうと誘いに来たアイツに他意はなかったか。夜市に行かず残ってた連中にはどんな奴がいたか。さすがに泊まった初日に煙草くれたあの子は大丈夫よな。あーわからん。でも間違いないんや、あの中の誰かであることだけは。

気になって仕方ない。

意味もなく電話を掛けてみる。オーナーに繋がる。事情を説明したら、探してみたけれど、ないようだと言う。その声は、どことなく含み笑いがあるようにも聞こえる。そんなハズはないか。そうですか、わかりました。お手数掛けてすみませんと電話を切る。

お金がなくなったのは仕方ないし、別にもういい、ほんまにもういい。実はお金のことはそこまで気にしてない。ただお願いや。頼むから答えだけでも教えてくれよ。誰の親切が嘘やったんや。そう願っても、謎は解けない。

気にしたってしようのないこともあるわ!
うっさいボケ!わかっとんじゃ!

それでも世界に心を開かないと始まらない

文化も言語も異なる、丁重にもてなすべき「お客さん」

きっとそれが現地から見た旅人の正体だろう。その中に、若干気安く絡みに来るヤツと、慎重で気難しく見えるやつがいるぐらいで。そいつがとある町に2~3日間滞在して、その中でちょいちょいローカルとの出会いがあったとしても、基本的には「サービスを受けてもてなされる立場」にあるのは変わらない。

そういう状況の中で、現地の人達の自然な振る舞いを、その目線や息遣いに近づいて、ほほーそうかそうかと、目線を合わせる、呼吸を合わせるのは多分とても難しい。僕はほんの短い時間の中で、無茶な期待を「ローカルとの出会い」に背負わせてしまっていた。

日本を訪れた外国人が「東京、大阪、京都を巡る2週間の旅」をした後に、いくらか日本人の感覚がわかったよ!と言ったとした時に、「早くない?」と思うなら、多分似たようなことだろう。

時間の長さが全てじゃないが、大事なことは目に見えず、分かりづらく、すぐにはピンとは来ないもんなんだろう。

それでも、やってみないとわからない。

旅の楽しみ方は人による。これが正解というものもない。誰かに遠慮するものでもないし、きちんと説明しないといけないものでない。よく考えたら、楽しくなくてさえ構わないんだろう。それでも、何かええことがあるかもしれないと、期待する。

どこかに出かけてみる。てきとーに(何もないかも)
周りを眺めて、面白いものがないか探す(見当たらないかも)
知識の不足は、想像で。感じて、考えてみる(ピンとこないかも)
人の出会いは予測できないから都度判断する(いい奴ならいいけど)

それらが何かになるかも、まだわからない。

魂までは奪わせない

一人旅も一人では出来ない。物理的にも無理だし、精神的にも難しそうだ。だから、その期間にその場所で、ぶつかった誰かしらと組みつ解れつやっていくことになる。多分そういうふうに出来ている。それは同じ様な旅人からローカルピープルまで。タクシー、宿、公共機関、エンタメ関連、酒、なんやかんやと。色んな市場に色んな人との接点がある。

そこにいつも横たわるのが、誰を信じていいかわからない問題である。

さっきまで横で楽しく飲んでいたバルチックの女性が、すっと席を立ち怖い男と入れ替わるなんてこともあるし、ただの冗談好きなボート漕ぎのエジプシャンを警戒し続けて気が休まらないこともある。

自分に閉じれば退屈で、心を開くなら多少のリスクは伴う。

自分の知らない何かを知るのが旅の面白みなれば、知らないうちが一番のカモにもなる。でも、もし詐欺にひっかかりお金を奪われたとて、そのネガティブな出来事に他の沢山の良かった小さな色々までも、まとめて塗り潰してはいけない。騙されて、思い出しては後悔して、しばらくは後遺症で他愛のない冗談にぞっとして、そんな糞のような記憶が心を乱しても、全てを台無しにしてはいけない。

ゆっくり、ゆっくり。心の傷には、日にち薬。またちゃんと信じられるように、世界に心を開けるように。立ち直らないといけない。じゃないと結局、自分が損をするだけだから。

死んだキリンの斑点は、亡骸になっても失われない、魂の模様に見える

魂までは奪わせない。

(総集編2 以上)

よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。