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自論

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短編詩集みたいに書いてます。 忙しいときにこそ、読んでもらいたい一転語のようです。
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#note

自論③②:「わたしの哲学⑶ ~人間観「多者」~」

この世界とは、「始原の神」によってつくられた世界である。 そして、その世界にいる者たちとは、 守護霊 指導霊 天使や菩薩、如来 そして、屋上からエレベーターで地上階に近づくと、 人間霊 地下へ降ると、、 動物霊 となる。 この世は、物質世界であるが、それは3次元の中で感じられるところの世界なのであって、、 本当の世界は、あの世であり、それは実在界だと教わっている。 しかし、あなたはこう考えるだろう。 なぜ、「物」(object)があるのかを それは

自論③①:「学生の記憶⑸ <坂の上の曇>」

大海原の太平洋の向こうに 主のお役に立てる天人でありたいと願っていた人物がいた。 それは、同級の「子規」の顔に似た男で。 というても、授業中よく寝ていて変なことを考えていた。 まるで、その男は、俺の弟に似ていた。 もう一人は、その「子規」といつも隣の席に座っていた「真之」みたいな謙虚な性格だけは確かにあった男である。 授業中、先生に質問をしたり、真面目に勉強する態度を見せていた。 ただ、あるとき、この2人を後ろの席から俺は眺めていたが、、 どうやら、この2人は

自論③⓪:「わたしの哲学⑵ ~空間論「三洋」~」

この世界には、2つの世界がある。 魂修行をする仮の世界である「この世」と、 死後に還って、今世、何を成したかによって辿り着く場所が決まる本当の世界である「あの世」があると。 パラレルワールドも存在するし、そうなるとややこしくなるだろう。 ただ、私たち人間は、この世とあの世を行ったり来たりして、自分自身が霊的な存在であることに目覚めなくてはならないと。 そう教わっている。 そして、私はこう考えた。 もし、別の世界があるならば、それは「その世」があるということであり、

自論②⑨:「幼少の記憶⑸ <神隠し>」

真夜中の町田市の山の麓に 民家がポツンとあって、 そこに色んな地区の人たちが宗教行事として集っていた。 「わたし」は、まだ、幼少間もない頃のことであって、 文字も書けない年頃のことであった。 民家の外に大きな野原があったのを覚えているが、 野原の草むしりを弄って遊んでいると、 そこに幽霊が寄ってきた。 その幽霊は、白い女の幽霊なのか、 はたまた、ゲートボールっぽい爺爺なのかは、覚えていない。 されとて、知らない森の方に連れ去られるように遊ばされていたのであ

自論②⑧:「わたしの哲学⑴ ~善事と悪事~」  

世の中には良いことと悪いことがある。 良いことをすれば天国に行き、菩薩の世界へ行くことで、人助けができる。 悪いことをすれば地獄に行き、反省するまで天上へ上がることができず、閻魔大王から舌を抜かれることさえある。 これが死後の世界である。 生きとし生ける世界では、自由と自由の相剋によって悪は発生する。 なので、みんなが幸せになっていくように自助努力をしていくことが大切である。 そして、わたしはこう考えた。 人間には3つの指向的法則性があることを。 それは自分に

自論②⑦:「学生の記憶⑷ <中高生の学生部合宿の思い出>」  

ああ、あの頃を思い出す。 私は、中学高校大学も含めて HSの春夏冬の合宿を毎年行って遊んでいた。 そこで思い出に遺っていることがある。 友人が家から持ってきた「ダチョウの卵」 夜寝る前に、およそ16人みんなで遊ん「UNOカードゲーム」 騒がしい野外BBQ 川の中の魚とりとその食 源頼朝の生まれ変わりが若者の相撲取合戦を観賞して「盛り上がってるね」のエールの一声。 源頼朝の生まれ変わりが合宿の下山式の時に、中高生みんなの前で司会をしてくれたときに「家に帰宅するま

自論②⑥:「現とは何かを考える」

これは宗教から学んだものではなく、人から教わったものでもない。 自分が根に持っているオリジナリティそのものであり、この世界でふと思いついた自分の考えである。 「現」とは、「現代」の現である。 しかし、本来の意味はそうではない。 「現」とは、「現れたる」という意味であり、 あまねく宇宙のとある星には、現れたる世界が展開されている。 それは「現人」「現国」「現神」によってユートピアが構築されているのであり、その源にあるものこそ「法」である。 私が過去、宇宙人であった

自論②⑤:「学生の記憶⑶ <自事故での一命>」

小学5年の夏休み 同じクラスの友達が一緒の自由研究のグループになり、 博物館に出かけた。 帰りにその友達とチャリンコでお家に帰ろうとしたら、 首に掛かっていた手提げ鞄の持ち手が足に絡まって、 道路端の壁にぶつかって気絶した。 数分後か、目を開けたら周りにたくさんの人が群がっていた。 助かったとみんなが喜んでいた。 この時からか、精神的感覚が少し入れ替わるような感じがした。 腕にはかすり傷が残った。 あれは一体何だったのだろうか。 愛とは何かをけだし感じた

自論②④:「物とは何かを考える」

これは宗教から学んだものではなく、人から教わったものでもなく、 自分が根に持っているオリジナリティそのものであり、自分で悩んで想い続けた考案でもある。 物は不動であるが、人間と同じような精神性を持っているのではないかと考えられる。 それを魂魄の魄と言っていいのか、似た表現で「官」と呼ぼう。 その精神性は、人間が思考する能動性とはちがって、 物の精神性は受動的。 当時、物とは、”念力”という超能力を使って、物を浮かせたり、飛ばせたりして、自由自在に動かせることができて

自論②③:「学生の記憶⑵ <初恋>」

小学1年生の頃、 学校の授業が終わってからの下校のとき 学童腕白クラブへ遊びにいつも行っていた。 そこで気になる女の子がいた。 でも、話すことがなかった。 2年生になってから俺は腕白クラブに行かなくなったが、 その頃に、その女の子と同じクラスになった。 そして、校内のクラスの隣にある男女トイレ そこで、いつの間にか、隣同士になって、愛の告白をした。 この時の俺の気持ちは、気になる子から好きな子に入れ替わった。 すると、バレンタインデーの日に、同じクラスの女

自論②②:「人間とは何かを考える」

よく世の中の人々はいろんなことを言う。 「人間は感情を制する生き物である」とか。 「人間は信仰を本能とする生命体である」とか。 「人間は幸福を求めて生きていく」とか。 「人間は社会的動物であり、政治的動物である」とか。 「人間は機械ではない」とか。 いろいろな言い方がある。 でも、「人は支え合って生きている」と言う人もいる。 さまざまな定義があるけれども、人間の心はこれであるとか、一概には言えないのだ。 その答えは、一つとは限らず、みんな一人一人が正しいと思

自論②①:「学生の記憶⑴ <目立ってハイピース>」

小学校の日光の修学旅行のとき、 全学年の集合写真で、みんなのど真ん中の前の方に立って、 天上に顔向けながら、ピースをした。 人前に立ちたがり屋だったのか、なぜそんな行動をしたのか覚えていない。 これをある中学校同級生だったチリに在住の女性友人はクスッと笑ってチリ人彼氏にその写真を見せて笑っていた。 俺が昔、目立ちたがり屋の性格なのか。 中学の頃、演劇部に入って、その女性友人と部活の練習中にふざけることの方が多かった。 それで先生に怒られてばかりいたそうだ。 あ

自論②⓪:「わたくしの三大観念」

宗教の話とは別の話をしよう。 わたくしには、3つの観念を持って、これを学問として捉える傾向がある。 第一に「哲学的観念」である。 これは地球人が見る認識とは違う、ちがった視点で物事をみることにある。 たとえば、パソコンやスマホというモノは、作った人と作られた人の意思によって存在する事物であり、 人とは心という意識があって存在する実態であり、 自然というのは宇宙の光によって存在する現れである。 つまり、すべての物事は、与えられて支えられて生きていることにある。

自論①⑨:「幼少の記憶⑷ <いとこの発表会をみて思ったこと、そして、いとことの思い出>」

今日は、HSの 子どもたちの芸能プロダクション発表会に参加した。 そこには、いとこの弟(現在小学2年生)が「舞台演劇の主役」と「発表会の司会」をつとめていた。 その発表会では、中学生も高校生も、ダンスや演劇、 それから、アドリブ劇、合唱をしていた。 みんな、光の天使のようで、キラキラしていた。

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