神を殺した先の光景は何か——多量の飴『反復する日々の中で、神さまを殺そう』について
(約10,000字)
はじめに
10月7日から開催されたボカコレから、気づいたら数週間も経った。私はといえば、ボカコレで公開予定だった4本の動画のうち2本を11月に回し、その分だけ他の人の作った動画も見に行こうと思い、ハッシュタグを通して自薦/他薦問わず、足跡を付けてくれたボカロPの曲を全部聞きにいくことにした。いわゆるリスナー活動だ。自薦については何度も同じルーキーがリアクションをしていることも個人的に分かり、ボカコレだって政治のロビー活動みたいなこともするんだなと思いながら、こういう機会がなければそもそも人の曲を聴きに行くこともない自分にとっては、とてもいい機会だった。
今回のボカコレから活動を開始されたボカロ曲レビュー企画である「ぼかれびゅ」では、期間中も数多くの参加メンバーによって、まるで寝る間もなく曲のレビューが行き交うのを目にしていた。Twitterのたった140字だけの文字制限の中で、コンパクトに感想を表現できるのはとてもすごいと思う。それだけでなく、そもそも1日100曲以上も簡単に聞いていられる体力にも驚くばかりだ。自分はたとえ好きなジャンルでも1日100曲聴いて、それを全曲100字でレビューするなんてとてもできない。それよりか、自分が気に入った1曲で10,000字で書こうと思うのだ。自分は自分にできることをするだけである。ボカコレ曲としては芥田レンリ「那由多」を一つ前のnoteで事実上登場させているので、ボカコレ曲関係のレビューはこれが2本目だろうが、今回は自分が過去に実践してきた諸々とも関係させながら、いろいろと書いてみたいと思う。
ポエトリーリーディングで音楽を作りつつ実写映像を組み合わせる私の方法からして、このサムネイルもつ意味深な文章と印象的な血痕はとても突き刺さるものがあった。「反復する日々の中で、神さまを殺そう」と称されたこの曲は、ボカコレ期間中に多量の飴氏によって公開された。まるで視聴者を選別するような血の描写にはじめ、結月ゆかりを使ったポエトリーリーディングと実写PV、そして激しいギターが濁流のように襲い掛かってくる終盤の展開は、いわゆる「POEMLOID」と言われる枠組みの、まさにその王道なものであるような印象も強く覚える。
「POEMLOID」考という記事がすでにまとめられているように、こういったジャンルはある程度、アメリカ民謡研究会にルーツを持った様式に収れんしている印象はぬぐえない。本楽曲はその点において、従来の様式を決して逸脱したものではないかもしれない。しかしながら、本楽曲の持つ言葉の重みと「血液」の描写は、そうした様式に収まった一派生形と結論させるにはもったいないほどの、大きな印象を与えてきた。私自身、ポエトリーリーディングを作っているだけでなく、PVを必ず実写にしているなど、本楽曲と表現様式は近いと思う。それだけでなく、アルバム『思考実装』の一つのテーマとして「血液」というものも据えてもいる。そういう意味では、かなり近いものも感じるのだが、一方でそれだけで片づけられないような、大きな方向の違いさえ感じ取ることができた。
そこで本稿は「血液」という共通の要素を見出す本楽曲と、自身がこれまで活動してきた蓄積で生み出してきた思考とを比較してうえで、いったい何が同じであり、そして何が異なるかを検証したい。そのうえで、ukiyojinguとは全く異なる選択を行ったものとして、本楽曲の可能性を提示してみたいと思う。
零度と文脈=制限
私が「血液」という言葉に意識を向け始めたのは「私は既にあったものを切り貼りしながらこの不完全を作り、そこに自ら手首を切り落とす。私の手から流れる血液の鮮やかさは、画面の向こうにいる貴方にどう伝わるのだろうか。」(以降、実装#3)という曲を公開したあたりだった。1年前のボカコレで公開した本楽曲は、昨年3月に公開したアルバム『言語交錯』の影響を受けながら作ったものだった。
今から2年前、2020年3月に作成した『言語交錯』というアルバムは、公開した10曲に加えておよそ100頁ほどの楽曲解説を電子書籍形式で作成し、それをpdfデータとして付けた。各曲解説を主として掲載している書籍にはアルバム内で展開した一貫的なテーマについても触れられており、それはいわゆる「新しさ」というものについてであった。まだまだ未熟な自分がさらに2年前に執筆したものであるため、論理的に書き上げられていない箇所も多いのだが、一貫して登場するのは哲学者/文学者のロラン・バルトの言葉だ。
彼は『零度のエクリチュール』という著作で、カミュの文学を参照しながら、その新しさを「零度」を表現した。この「零度」とは従来の著者に規定された規範的「文学」という枠組みを脱構築し、読み手がその束縛から解放される可能性として提示するものとされる。だが一方で、バルトは零度のエクリチュールは時間をかけることによってやがて従来の「文学」へと回収され、最終的にはその冷たさを保てなくなることも主張する。零度のエクリチュールさえも回収して膨大化する文学というものは、一方では現代アートを批判的に表現した作品をも回収しながら「なんでもあり」に膨大化していく現代アートの世界にも、他方では「アンチ・ボカコレ」と称した曲の多くがボカコレのタグに登録されることによって、究極的な批判を不可能にしているボカコレという「なんでもあり」な祭りにも通じるものがあるかもしれない。私たちが何か経験をした際、従来の文脈から解放されたような新しいものの見方が仮にできたとしても、それはやがて解体され、従来のジャンル分けへと立派にカテゴライズされていくことになる。そうした状況を受け入れたうえで、いったい何ができるのだろうか。こうした常に更新させる文脈と対面しつつ、そこから向こうの新しさはいかにして可能か。文字化するとなんだか高尚なものにも錯覚してしまいそうだが、『言語交錯』からの一貫した方向性は、思えばそうだったと思う。なんでも回収して膨大化していく文学、現代アート、あるいはボカコレ…。受容者を強烈な文脈で支配するこれらの作用は、良くも悪くも作り手側にも影響を及ぼすだろう。作り手のだれしも、作品を作る際にそれ以前にあった文脈からは決して逃げられないはずだ。
そうした文脈は、それらを「作品」とみなすための境界線として作用する――「作品」と「そうでないもの」との境界線を作る――点では、確実に必要なものだろう。現代アートの代表的作品たるデュシャンの《泉》(1917)という作品は、美とは何かという哲学的批判の上に作成されているからこそ、それは「現代アート」としてみなされている。「作品」はあくまで意思伝達のメディアでしかなく、その価値を支えるのは文脈だ。そして、その文脈は非常に曖昧な形で共有されているからこそ、作品における作者の意志は100パーセント伝達はしえない(これについては前掲のnoteも参照されたい)。作品のメッセージには必ずエラーが発生し、そしてエラーのない純然な作者の思想は、もはや作者の胸中のうちにしかないのだ。そうした考えは作品解釈を無限大に広げ、受容者はその宇宙から独自の意味を獲得していくのだが、そうした伝達作用の複雑さと作品の難しさは、ニコニコ動画に特有のジャンルやハッシュタグとはもはや相反する。私たちはニコニコ動画のジャンルを参照し、楽曲を探索したり、あるいは楽曲を投稿したりを繰り返している。ボカロPの誰しもが必ず「音楽・サウンド」のジャンルを選択し、そして「VOCALOID」というハッシュタグをつけて投稿しているのは、ほかでもなく楽曲を聞き手に「分かりやすく」伝達するためだろう。電波上でコミュニケーションしている私たちは、それまでの「文学」とも「現代アート」ともまた違う、数値化可能なデジタルデータでしかやり取りができないという環境で作品を公表し続けている。いわば、ニコニコ動画それ自体のフォーマットが巨大かつ、これまで以上に強力な「文学」であり、絶対に曖昧にはならない形の文脈だ。私たちはそんな強力な磁場の上で、楽曲投稿と再生をまさに「反復」するのだ。mp4データという投稿上の条件から、「VOCALOID」タグまで、ニコニコ動画にはあらゆる文脈=制限が内在し、解釈の複雑な宇宙はその制限があるからこそ、初めて成立している。
私たちが自由に活動しているインターネットは、その実とても狭い世界でしかない。そんななかで、果たして「零度」はあり得るのか。だからといって、もはやネットワークの外側で生活することも、この時代ではもうできないだろう。だからこそ、自身の翻訳不可能な唯一性を、どうにかして伝達することを検討するのだ。それこそ「零度」であるだろう。「私は私の手首を切り落とし、そこに私の血液を注ぎ込む」という表現を用いた実装#3は、切り落とされた私の血液の内包する唯一性が、データに管理されない「零度」を帯びることを期待して作られたものであるのだ。
数学=制限化する身体、それに抗する血液
上記のように「血液」は「唯一性」であり、そして唯一性はネットワーク上ですべてを数学的に束縛し、分かりやすいデータとさせていくような様相から逃避するような可能性を求めるものである。そうした実装#3の「血液」と、「反復する日々の中で、神さまを殺そう」における「血液」の扱われ方は、どこかしら同じものがあると思う。「血は存在を示すためにある」と語られ、そして痺れた指を切り落として「わたしのためだけに祈る」という言葉が、「反復する日々の中で、神さまを殺そう」では出てくる。無稽な神様を恨んで、祈る指を切り落として、そして自己を示すために、祈りで痺れた指を切り落とそうとする。その姿勢は、自分がよく「血液」という言葉に込めた意味と重なると思う。血液は唯一性のアナロジーであり、「わたしのためだけ」になされるべき祈りは、強力な文脈=制限化作用を持つ「神」から逃げるためになされる。そのように考えることはできないだろうか。以降ではこの前提に立ったうえで、文脈=制限化作用に抗するものとして血液をアナロジックに見ることを通して、本楽曲と自身の思考とを(勝手にではあるが)より近づけて考えてみたく思う。
ニコニコ動画、ひいてはインターネットの全ては数学によって構成されており、私たちは電波の上ですべてを0と1に翻訳可能な範囲でしか自己表現ができない。そうした制限のみならず、VOCALOIDやVOICEROIDを使用する際、私たちはこれらの制限の上にさらに「声」という自己の唯一無二な要素さえ捧げることで、あらゆる制限と負担を自己にかけることによって数多くの媒体に作品を流している。これらの多重にもなされた文脈=制限の上で送信させるmp4データたちは、どこまで唯一性=血液を保持し、伝達されるのだろうか。思考実装のシリーズのなかで、私はあるときは自分自身の1か月の日記をそのまま30分の動画に込め、またあるときはインターネット上で過剰な制限によって元々の自信を喪失した主体が、逆に電波に支配されていく様相を既述した音楽を作った。そうした音楽たちは、電波を通してコミュニケートする私たちに制約を課している、ある意味での数学的存在、電子上の神とも言えそうな存在に対し、それを真っ向から否定するのではなく、その神の手の掌の上からどこまで自身の唯一無二性=「血液」を流すことができるかという問題に関係している。
神としての数学的存在。それに意識を向け続けると、作者は次第に自分が何をしたいのか分からなくなるだけでなく、再生回数やアナリティクス、そしてランキングなどの「分かりやすさ」に束縛されることによって、次第に見当識さえも崩れてくる。「反復する日々の中で、神さまを殺そう」の映像では、見た目は本物のナイフに対し「おもちゃのナイフ」という言葉が据えられる。或いはこれは、数学的な神に支配された私たちがもはや現実を正確に見ることができないことを、示しているようにも感じ取れる。私たちはもはや、本当に切れてしまうナイフさえ、「おもちゃ」と錯覚し、指を切り落とすのだ。
おもちゃのナイフ(に見える本物のナイフ)を取り、指を切り落とし、そして血液を流す。切り落とされた指から流れる血液を目撃し、自身の生を確認すること。楽曲では「神」を恨み、その外にあるだろう「本当に祈るべきもの」を探そうとすることが説かれるが、それは換言すれば、「私が私のためだけに祈る」ために「神」を決別することではないだろうか。だからこそ、本楽曲ではもはや正しい世界の認識を失いながらも、それに抵抗して指を切り落とそうとするのだ。その行為は、私が実装#3にて述べた手首の切り落としと、そこから流れる真紅の血の鮮やかさがモノクロの映像を赤く染めていくことへの期待と、どこかしら類似しているような感覚も覚えている。赤い血液の見せる生々しさは、きっと文脈に支配されないリアリティを提供する。
数学的世界=神、を活かすか殺すか
本楽曲と『思考実装』との間にはいくつもの類似点。その一つは「血液」の持つメッセージ性であり、それは数学的神によるカテゴライズという制限=文学からの抵抗ということができるものであると考えられる。そうしたテーマを同じにしながら、一方で本楽曲の目指す方向については、実は私の作る曲とは大きく異なっているように思える。本楽曲の動画にも登場するカミュの『シーシュポスの神話』をもとに考えてみたい。
前々節でも紹介した『零度のエクリチュール』における具体例として参照されたカミュの代表作たる『シーシュポスの神話』は、その一つのテーマに「自殺」がある。冒頭で「真に哲学的な問題は一つしかない。それは自殺についてである」と感心を向ける彼の結論は、「自殺は反抗ではない」という言葉に込められているだろう。20世紀の二つの大戦のさなかを生きた彼の作品は俗に不条理小説と称され、現実世界を否定的に語っているが、それでもなお「自殺は(不条理に対する)反抗ではない」と説き、生の抵抗を積極的に肯定する姿勢を強く見せる。世界を「不条理」とみるような否定的姿勢を強く持ちつつも、そのうえで主体を力強く生かそうとするようなそんな姿勢はは、ニーチェの「力への意志」にも近いようなオプティミズム(世界に生きる意味は無いとしつつも、それならば自分で自由に決める事が出来るという思想)的思想を感じ取れる。ニーチェは死後に刊行された著作『権力への意志』で、「我がものとし、支配し、より以上のものとなり、より強いものとなろうとする意欲」という表現をした。そうした姿勢はカミュにも通ずるだけでなく、反復する日々を否定し神を殺していこうとする本楽曲にも通ずるのではないだろうか。自殺するのではなく、不条理を力強く生きることこそが要求されている。そうした力強さは、「神さまを殺そう」とまで主張する「反復する日々の中で、神さまを殺そう」のメインテーマの一つであるだろう。
一方、私は神さまを殺す方向には向かわなかった。無色透名祭にて投稿し、今回のボカコレにて改めて自分のアカウントから投稿した「無色で透明な私たちは互いに融合しながらも、他方で消えない血液と己の半身を希求する。 だからこそ、私は互いを解体させられるほどの、血液たちの接触と消失を望んでいる。」(以降、実装#8)は、電波のなかに集まる多くの匿名たちが集合して一つになることについて肯定的に語っている。その背景には、古くからインターネットが有していた「自身の固有性を放棄して集合体に回帰しようとする姿勢」に大きく関係する。先述のように、インターネットはその根本的性質ゆえにあらゆる要素を分かりやすいデータへと還元していくため、そもそも「誰が誰だかわからない」という匿名性はラディカルな視点では存在できない――IPアドレスがある限り、誰も「匿名」にはなれず、だれしもが番号で管理されている。にも関わらず、およそ20年前のネット掲示板では仮の匿名性ともいえる環境化で、ユーザーたちは集合して一つのムーブメントを生み出した。その源流は2ちゃんねるを経由し、やがてニコニコ動画へと発展してきたものだ。それらはいわば、主体がその存在を全面的に押し出すのではなく、ネットワークの下で全員が平等に配置されるような世界を希求するものだ。そうした平等主義的な運命共同体の可能性は、在りし日のネットワークの姿であると同時に、どのような環境でも必ず「何者か」であることを強制する――まさに「あなたへのオススメ」によって主体が外部から決定させられるように——事態が横行し続ける今日の情報空間に対し、「何者にもならない」可能性を提示している。
本年8月に『青春ヘラ』にて投稿した「血液たちの濃厚接触」という文章にて、私は2010年代以降の情報環境について「何者かにさせられる」ことを問題意識に据えつつ、それに対して主体が積極的に何者であるかを提唱しようとする流れ——「何者かになる」ための実践――が散見されることを見つつ、それらがいずれにおいても「何者か」という主語で縛られてしまっていることを指摘した。だからこそ、私たちは「何者にもならない」必要があるのではないかと考えたのが実装#8であった。しかし、同時にそうしたムーブメントは所詮、インターネットという文脈=制限という掌の上で踊っているだけに過ぎないことにも注意を向けねばならない。この時代において「何者にもならない」でいることはもはや理想論の範囲を出ない。実装#8と同時に公開した楽曲「この手。この指。この爪。この皮膚。この身体。この弦。この電波。この通信。この線。この音。この画面。この合成音声音楽。この映像。この日々。この生活。私のすべて。」(以降、実装#9)では、私は無色透明な何者にもならないことを肯定しようとする一方で、「何者にもならない」ことを主張すること自体が「何者か」を意識しているという点で部分的に破綻しており、だからこそ「何者にもならない」ことはもはやできないと結論づけた。
「何者か」から逃避することもできないが、だからと言って強制的に「何者か」を規定させられるのはもはや暴力的でもあるだろう。「何者にもならない」集合体はきっとユートピアだろうが、それは転じてディストピアでもある。あるいは、集合体を客観的に分析し、それを肯定するためには、主体が集合体からも分離されていなければならない、ともいえるかもしれない。かくして、共同体の持つユートピア的世界は確実に崩壊していく。
いわば、集団が数学という神を信仰するかのような全体主義的ユートピアへの希望と、その挫折がそれぞれ実装#8と実装#9では展開された。私たちはもはや「神」としてのインターネットを否定することはできないが、かといって集合体に延々と埋没することも許されない。ではどうしたらいいのか。そこで私は最後に、分析心理学者カール・グスタフ・ユングにおける、集団と関係した形での主体を獲得する議論を経由することにしたい。
「集合的無意識」という言葉で一躍有名になった分析心理学者カール・グスタフ・ユングはその実、主体が集合的無意識の持つ強力なイメージの世界に沈没するのではなく、それらを根源に持ちつつも個別具体的な人格を有していくことを肯定した。その姿勢はまさに、集合的なものとも関係を持ちながらもそこから断絶することのない、集合性に端を発した主体の可能性である。そうした主体獲得の過程――ユングはそれを「個性化」という――は世界を否定するのではなく、世界と関係する自己の内面から発生しているものであり、外部から「何者かになること」を性急に求められ、そしてそれに過剰に反応させられることに対しては批判的だ。不条理性(=神、数学)をもとにして外部から強制的な変化を要求されるのではなく、他者との関係性の中から主体を変容させることが重要であるユングの思想は、外部を起点にするのか、或いは内部を起点にするのかで異なっている。それはニーチェが主体の持つ「力への意志」によって生きる意味のない世界を生存すること強調したのに対して、分析心理学の源流たる精神分析が主体内面の無意識の次元から自己を確立させ、世界を生存することを主張していったことと近いだろう(ユングは『無意識の心理』で、ニーチェの影響を受けたアドラーの思想とフロイトの思想とを対照的なものとして論じている)。外面的な力関係ではなく、内面から変貌していくこと。そのために、私と無関係に切断された関係にいる「あなた」を知ること。それが『思考実装』の最終的な結論であり、そしてその先にも大きく関わる個人的な問題でもある。
神様を殺したその先は何か?
「反復する日々の中で、神さまを殺そう」という楽曲の「血液」に対する強烈な欲望は、神を殺すことによって手に入れられる、自分のためのだけの祈りのために発せられている。それは換言すれば、神という外在的要因を排除することに、本楽曲は力を向けているということだろう。本稿ではこの「神」をインターネットの数学的アルゴリズムのアナロジーとして認識すると同時に、それを打破した世界を希求する本楽曲の力強さに、私が惹かれる理由の一つがあると考えた。数学的世界を打破し、その先を求めること。そのためになされる指の切断は、従来の論理では通用しない、全く新しい世界へと私たちを誘う「零度」を帯びている。一方、私はいわば「神と関係する自分自身」を希求し、神を殺すことは行わない。この点が、本楽曲のテーマと私との大きな違いだろう。
神の殺害による「零度」は、私が『思考実装』や『言語交錯』を通して選択しなかったものでもあるだろう。先述したように、『思考実装』は私たち全員が集合体そのものに回帰することができないことを提唱する一方、集合体と根源的次元で接続している関係から構築される主体の内面的構築の可能性を検討することが最終的な結論となった。集団の構成員である自分自身は、構成員の一部である集団に依存しながら構築される。それは内面的に形成される主体であり、外在的に存在する「神」を殺すことによって獲得される主体の物語と、似ているようで異なっている。
精神分析を根底に持つユングと、ニーチェのオプティミニズムを根底に持つカミュとでは「力」を外部(権力)に求めるか、あるいは内面(欲動)に求めるかで異なるだろう。だからこそ、私は本楽曲がその先に据えることになる、新しい可能性に注視していたく思う。「神さま」を「殺」した先、いったい何が待っているのだろうか。それは恐らく、どの文脈にも回収できないような「零度」の新しさを帯びるが、一方でそれはどの文脈にも回収されないからこそ、本質的に孤独だ。さらに言えば、文学はやがて「零度」すら回収してしまうという点において、神の殺害は不可能でないかとも思う。だからこそ、それに挑戦する本楽曲には価値があるように思う。私は文脈に基礎づけられた世界に一度立ち止まり、そこから考えることにしたのだが、そうした自分の視点から見ると、本楽曲のどこまでも外部を求められるような可能性は、何か革新的なものを生み出すのではないかという期待を抱かせてくれると思う。
集団に基礎づけられない切断面の零度が、どのようにして更新されていくのか。その追求はまさに、私が選ばなかった選択肢のその先を提供してくれるだろう。
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