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消えることについて——『青春ヘラ』寄稿文への補足

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はじめに

 台風の到来に伴い本日開催のコミックマーケット100は無事に開催されるか否かが不安なところもあったが、当日は朝から天気がとてもよく、ROCK IN JAPAN FESTIVALの中止をはじめとして各イベントが警戒態勢を強める中、あれは一体何だったんだろうとでも言わんばかりに空はとても青くいい天気である。個人的に台風によるイベント中止をいうといつぞやの美学会を思い出すのだが、あれは10月中旬だったこともあり、もはや秋というべきだろう。台風は夏の風物詩だというイメージがついているのはどうしてだろうか。いずれにせよ、今後天気も悪くなるのかもしれないが、東京から遥か彼方、新幹線で2時間半先のこの京都からは現地の状況の一切はメディアを通してしか知ることもできないので、現地で何が起こるかについて自分が何か語ることも変な話だ。

 さて、本日開催の夏コミケにて、私は直接関係しているわけではないのだが、間接的な形で人生初のコミケデビューをすることになった。東地区5 ぺ51aにて設置された「大阪大学感傷マゾ研究会」にて販売される会誌『青春ヘラver.4 (特集:エモいとは何か)』にて文章を寄稿させていただき、それが販売されることになった。タイトルは「血液たちの濃厚接触」というもので、「エモい」という言葉の持つ中身のなさ、空虚さに注目を絞りながら、この言葉を2010年代以降に徐々に形成されてきた国内ネット文化の潮流に対する、2000年代的なものからの応答であると示している。書籍では論考に区分されて掲載されている拙論であるが、それほど難しいことは言わないようにするというのが自分のモットーでもあるので(難しいことは言えないので)、いつものように平坦かつ何となくサブカルチャーを知っていればなんとか読めるように最大限努力したつもりだ。当日参加されている方にはぜひ手に取っていただきたいが、Booth販売もされるようなので(発送は22日以降となるが)、いろいろな人に手に取ってもらいたいと思うばかりである。とはいえ、オンライン販売だとどんな内容の文章を書いたのかが分からないところも多い。思い付きで文章を書きだしたゆえの稚拙さはあるかもしれないが、ここで少しだけ文章の内容を紹介するとともに、文章を書いた7月ごろから今に至るまでの間で必要となった補足事項も少しだけ、ここで追記できればと思う。

寄稿した文章について

 「エモい」ってなんだろう。私にとってはそんなに考える機会もなかったこの言葉についての文章をお願いされたのは実は結構昔のことで、春先だったと記憶している。丁度大学院を修了(あるいは中退)し、新しく仕事を始めようとしている時期であった。とはいえ、この「エモい」という言葉が分からないのに、この言葉について書いてくれというのもなんとも不思議な話であり、特に先行研究のようなものもないこの言葉が一体何を意味しているかの起点として、私はまず自身の記憶のなかでこの「エモい」という言葉をどこで聞いたかを思い返すことにした。一番古い記憶は大学1回生の頃のライブハウスにて、若干のシューゲイザーを含んだオルタナサウンドを奏でる先輩のロックバンドに対する感想として、周囲が「エモい」という言葉を使っていたことだった。私にとってこの言葉は音楽関係の言葉なんだと思った矢先、マスメディア上では「エモい」という言葉とInstagramが関連付けて紹介されている光景も見た。そしてそれは次第に、自分が主に活動しているニコニコ動画やボカロ文化の中でも徐々に登場することになったのだった。

https://togetter.com/li/1891135  より

音楽でも画像でも、そして映像でも使用できるこの言葉はまさに「なんでもあり」の様相を呈しており、そうした「なんでもあり」加減について、私たちはある程度自覚的だったと思う。2022年5月に朝日広告賞の一般枠にて応募された『広辞苑』の広告として挙げられた上記画像は、SNS上で多くのユーザーの反響を呼んだ画像であり、その表現の鋭さが評価されたものであった。画像では広辞苑から引用された多彩かつ繊細な語彙たちが次第に簡単な言葉へと片づけられ、最後にそれは「エモい」というたった3文字の日本語へと回収されている。本画像は「エモい」という言葉の持ついい多彩さ、いい加減さを表現すると同時に、私たちの本来有していた文学的な語彙のあらゆるものがわずか3文字の日本語に片づけられ、失われてしまうことを批判的に書いているだろう。

 「エモい」という言葉はそれ自体がふわふわとした、曖昧な言葉として登場し、その曖昧さゆえにかつての語彙が有していた繊細さからは遠く彼方に立っているのかもしれない。これに対し、拙論が掲載された『青春ヘラ』の多くでは「エモい」の定義とは何かを示そうとする実践も行われている。タイミングが合わなかったゆえにまだ書籍全体を拝見はできていないのだが、目次を見ると「質問調査と機械学習による『エモさ』の抽出」という言葉もある。エモいの曖昧さを解体し、この言葉の輪郭線を引かんとする実践は行われるべきだろうが、一方で、私はこの言葉をあえて「無意味かつ曖昧なもの」としてとらえることで——神話を解体させずに神話のままにおいておくことによって、そこから生じるある種の宗教的ともいえるかもしれない集合的なエネルギーのようなものを描きたかった。だから、執筆した文章ではこの言葉を一貫して曖昧なものとしてとらえるだけでなく、そうした曖昧さは国内ネット文化を軸線にして検討することで、それ自体が2010年代を経て大きくかつ不可逆的に変質してしまったネット文化に対する、もはや戻ることのない2000年代の郷愁を覚えるような意味合いも有していることも、本稿で検討している。

 なお、本稿の特に前半箇所については以前に執筆させていただいた『合成音声音楽の世界2021』にて書かせていただいた内容とも重複する箇所もいくつかあり、特に2000年代における「接続」から2010年代の「切断、あるいは強制接続」という構造はこれまで自分が書いてきた文章の中でもいくつか出現もしている。2ちゃんねるをはじめとした匿名掲示板の上に成立してきた国内ネット文化は、今日のSNSと比較しても明らかなほどにユーザーの個人的な側面を捨象する(全員を「名無し」にする)ことによって誰しもを平等な存在とすると同時に、個人的な側面を失ってフラットになったがゆえにユーザー同士は一体化し、ともに巨大な何かを生み出すことを可能にするような文化を醸成することができた。そうした「名無し」であるがゆえの協働型創造はある時は2ちゃんねるの「モナー」として、そしてある時はニコニコ動画の「初音ミクのネギ」として文化史のうえで出現してきただろう。しかしながら、2010年代以降はそうした傾向は徐々に薄れていくことになった。「名無し」に代わり出現するボカロPたちは皆ハンドルネームを持ち、そして「ほかの誰でもない君のために(ODDS & ENDSより)」ボカロは歌う。かついてはコミュニティ全体のために共有されていた文化はいつしか方針を個人へと変え、パーソナライズされたボカロがボカロPに寄り添いながら、どこかニコニコ動画の世界から大人気のトラックメイカーとして社会で注目されることを期待してる。初音ミク特集として組まれたNHKの「プロフェッショナル――仕事の流儀」にて、出演したDECO* 27が「自分だけのミク」という旨の発言をしていたのは、まさしくそう言った時代感覚を象徴しているようにも思える。

 かくして、私たちは集合的なものから徐々に別れ、情報空間上でパーソナルな自分に沿った表現を行うと同時に、自身の価値が「再生回数」という形でフィードバックされることによって、皮肉なことに他者と一体化するどころか他者を敵対視する傾向さえ見えてきたように思える。生み出されるデータをフィードバックし、自身が何者であるかを決定するアルゴリズムの構造は2009年にイーライ・パリサーが主張した「フィルターバブル」概念を想起させるが、その実態はどうあれ、私たちはいつの間にか自身が何者であるかについて、それをデータから外在的に規定される時代を生きることになった。わずか10年前のネット文化上では、私たちは何者でもない「名無し」だったのに、だ。

 「何者でもない」2000年代から、「何者かにさせられる」2010年代への転換に対し、その応答として「何者かになる」実践もなされてきた。文章では現代美術の文脈を参照しているが、それらは主体を解体し、再構築することによって登場する主体との再遭遇の物語としての芸術実践を主に扱った。インターネット上で私たちが「何者かにさせられる」のなら、私たちはそのアルゴリズムを解体し、メディアの持つロジックを脱構築する方法によってこそ、主体を獲得することができる。まるでメディアアートの命題のようなテーゼから作り上げられる芸術作品はそうした主張を提示し、そしてその斬新さは確かに大きな影響を与えてくるのかもしれないが、しかし「何者かになる」実践は一方で、主体が自身を獲得する物語である以上は2010年代的な文脈の訴状にあるのかもしれない。であれば、主張されるべきはおそらく、「何者でもない」2000年代なのだ。以上のようにして、本稿は2000年的な思想の再回帰として「エモい」を位置づけた。しかし、内容についてはかなり省略して紹介しているため、その詳細はぜひ本書を手に取って読んでいただければと思う。

補足(ここから先は読んだ人向けかもしれない)

 本文は現代美術家の布施林太郎氏の作品を例に挙げながら議論を展開しているのだが、2022年8月11日から開催されている個展「新しい死体」ではその新たな展開が示されてもいるように思える。東京の渋谷で開催されるということで、残念ながら京都と大阪を往復し続けるスケジュールが決定している自分は迎えないのがなんとも残念でならないのだが、幸いなことに個展開催に連動する形でDommuneで行されたイベント「個なき孤独」は仕事の合間を縫いつつ、ほぼ音声だけだが聞くことができた。仕事の合間ゆえ「個なき孤独」という言葉の真意をつかみ損ねたのがなんとも残念な限りなのだが、トークイベントなかで個と集団との関係性についての話しはいくつか耳にし、そして強く印象にも残った。SNSが発達した現在、インターネット上で複数のアカウントとともに生きている私たちのあり方は、ある意味で主体を解体している様相を帯びているのかもしれない。そうした問題意識を想定したうえで、アーティストとしての「個」を消去しようとする願望がもしあるのならば、もしかしたら私が主張した集合体規模での「血液たちの濃厚接触」と言える行為と近いのかもしれない。個展開催前に執筆し提出した拙論で主に扱っているのは2021年に作成された映像作品たる《名前たちのキス》であり、そこではアノードとカソードは解体されるものの、それが出会い系サイトの隠喩として作動する以上、最終的には「個」の遭遇であると私は今回の文章で述べている。そのうえで「名前たちのキスから、血液たちの濃厚接触へ」というテーゼを文末に掲げて締めくくったのだが、「個なき孤独」という言葉のさらなる具体化をとおして、その先が具体化されればと思う。その一方で、血液たちの濃厚接触を果たすためには全員が「名無し」になる必要もある。かつての匿名掲示板が「名無し」によって構成されたことを鑑みれば、それは作品に付帯するすべての情報(作者さえも)を消去することで完成するのかもしれない。布施作品における濃密な関係性から、全てをフラットにすることによって実現可能な、完全な平等社会への可能性へ。無論、私がこうして書いている文章も、例外ではない。それは今日の過剰なまでの情報社会の中ではもはやユートピアなのかもしれないが、ラディカルな視点として検討すべき要素を強く含んでいるように思える。

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