[2000字エッセイ#8]初音ミクは弔われるべきか——「THE ドラえもん」展におけるもの悲しさより
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[2000字エッセイ#8]初音ミクは弔われるべきか——「THE ドラえもん」展におけるもの悲しさより

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 時刻は22時過ぎ。京阪電車の最後尾車両に乗りこみうとうとしていると、京都市内の駅で40~50代くらいの中年男性が通路を挟んだ向かいに座り、おもむろに靴と靴下を脱ぎ棄てた足を通路側に向けだす。あまりの悪臭と品の悪さに軽蔑の念を覚えつつ、とはいえ中年男性をいさめる気にもなれない自分は、品の悪さが自分に染み付くことを恐れるように、席を移動する。

 年齢から逆算するに、おおよそ高度経済成長期の世代にあたるだろうか。「ゆとり世代」とか「さとり世代」とか言われ続けた世代の私は高度経済成長を知らないが、かつて日本が持っていた未来への期待ともいえるものの果てが私の目前に現われた中年男性だとしたら、それは何とも皮肉なことだ。無論、私の眼前の中年男性に世代のすべてを象徴させるつもりはないが、しかし私の目前にこうして現れている男性は、紛れもない事実だ。

 現在を生きる私からみて、かつての時代はどういうものだったかは想像するしかない。そんなことを考えていると、私はふと先日京都京セラ美術館にて開催されている『THE ドラえもん展 KYOTO 2021』のことを思い出した。東京からスタートして京都で現在開中の本展示は、今を生きるアーティストたちに対しそれぞれが思う「ドラえもん」を作品として表象することが一つのテーマであった。そうしたテーマをもとに、絵画や彫刻、衣服や映像といったバリエーション豊かなアーティスたちが一同に会してそれぞれの作品を制作していったのだが、私はそれらの作品を見ながらも、多くのアーティストがドラえもんに対し、ある種のノスタルジー的なものを表象しているように感じ取れた。それは、未来から来た希望溢れる存在ではなかったのだ。

 かつて高度経済成長における未来の象徴だったはずのドラえもんは、まるで未来が見えなくなってしまった平成の不況を前に、その姿を完全に失っている。そうした現実主義的視点からのある種のドラえもん否定は、本展覧会において展示されたアーティストの作品からも見ることができたように思えた。しりあがり寿による《万事解決!劣化防止スプレー》はそうしたかつての夢が現実社会に実現しないことを、芸術作品として表象していた。まるでエヴァンゲリオンの最終回を想起させるように崩壊したドラえもんとのび太を描いたアニメーションは、「劣化防止スプレー」を利用することで徐々にアニメーションの姿を取り戻していく。そうしたドラえもんのアニメーションは、現実社会において劣化防止スプレーが存在しないことへの諦念を私たちに提示している。佐藤雅晴によって作成された《かくれんぼ》は現代的視点からの喪失感をより直接的な手法によって映像化した作品として、私の記憶の中に強烈に残った。小学校や都会といった数多くの子どもを想起させる場面のうえに、作品上では3DCGで合成されたドラえもん背中を向けて、去っていくアニメーションが用意される。かくれんぼの音楽とともに鑑賞者に背を向けて去っていくドラえもんの光景はやがて小学校から舞台を移し、アニメを放送しているテレビ朝日屋上なども映る。そうした描写はドラえもんが現実に存在しないということだけでなく、テレビ朝日の屋上に設置されたドラえもんの看板やオブジェを映像に入れ込むことによって、それが消費社会向けに作成されたコンテンツであり、ドラえもんの世界が現実とは隔絶された空間にあることを私たちに再度提示している。

 現代的視点からのこうしたドラえもんを用いた表象は、失った「かつてのドラえもん」をどのようにして思い返すかという、ある種の「弔い」としての意味を強く持っているだろう。ドラえもんがフィクションであることを知っている私たちは、ドラえもんに出会うことはできないのはもちろん、それがフィクションであることを認識しているがゆえの、現実社会との摩擦を日々感じている。そうした「失われたかつての夢」に対し、アーティストたちは弔っているのだ。このような私の感想はまさに、個人的な体験としての「初音ミク」のイメージに関する崩壊とも大きく関係してくる。2000年代と2010年代がおもな少年時代だった私は、インターネットの想像する夢としての初音ミクの登場と、その夢の崩壊をこの目で見てきた。そうした私の経験はまさに、高度経済成長期におけるかつての夢たる「ドラえもん」と、それが実現しなかった現実社会との間に存在するある種の「もの悲しさ」の象徴として、本展覧会を印象付けたのであった。

 ともすれば、私はかつての初音ミクを弔う方法を知る必要とその手法を、この「ドラえもん展」より考える必要があるのではないだろうか。もしかすると、そうした私の問題意識は2021年7月22日より東京で開催中の「初音ミク・クロニクル」展において、一定の応答が出ているのかもしれない。時勢の都合上京都から足を運ぶことも憚れるなか、東京での展示はなかなか見に行くのも厳しいが、ドラえもんと初音ミクは共に当時の時代精神を表象する存在であり、かつ両者がそれぞれ想像した未来が到来しなかった存在だ。登場してまだ20年も経過していないなかで「弔い」などという言葉は時期尚早なのかもしれないが、そうしたことは今後のボーカロイド文化上で、かならず必要になるのではないだろうかと思う。かつての夢の結果が、電車の中で素行の悪い態度として出現しているのであれば、それは何とも絶望的だ。私たちはそうならないように、熟慮を持って初音ミクを弔う方法を知る必要があるだろう。

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