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ボーカロイドの存在論—ukiyojinguはどこに向かうのか

(約9000字)

1.はじめに 

 ukiyojinguはなぜ、ボイスロイドを用いるのか。 

 純粋な理由を言うのであれば、たまたま楽器屋にて4割引きで販売していた『VOICEROID ex+ 結月ゆかり』を発見してしまったからであり、かつそれを「安い」と判断したためである。事実のみを述べてしまえば、それ以上の何もない。 

 しかし、ただ事実それだけを述べてしまうことは容易だが、以上の私がボイスロイドと出会った「事実」の話は先の問いの答えにはふさわしくない。なぜなら、私がそれを「安い」と判断して買うことと、ボイスロイドを用いて曲を公開することの連関性はないからだ。素朴な例だが、卵を買いにスーパーに向かう主婦がただ「安いから」という理由で今の自分に全く必要のないネギを買うことは論理的に正しくない。これに同じく、たまたま楽器屋で見つけたからと言って、それが自分にとって「不要」だと判断したら、それは買われないだろう。 

 ならば、ukiyojinguがなぜボイスロイドに至ったのか、そしてなぜ「結月ゆかり」であるのかを考える必要があるだろう。そしてこの問いを通して、広く「ボーカロイド」を使うこととは何を意味するのか、それは一体どういう存在なのかという問いに対しての一つの答えが見えてくると考えている。そのためにはまず、いくつかの思想と自分のことから考えていきたいと思う。私がボイスロイドを用いる理由を端的にまとめていうのであれば「事実そのもの」を記述することである。これには、いくつもの問題が内在している。 

2.言語的問題——まずは前提から 

 そもそも、ボーカロイドはどのような存在なのか。無論、基礎的な情報は柴(2013)をはじめとしたボーカロイドの歴史をまとめ上げた本を読むことによって簡単に手に入れられ、そしてこのことはボカロ音楽が社会の中で広くも受容されてきたということも意味するだろう[ⅰ]。だが、ここでの主題である「どのような存在なのか」という問いでは、一般的な事実の記述のみで満足してしまうことは避けなければならない。一般的な歴史的事実(2007年に登場し、クリプトン・フューチャー・メディア社によって作成されたなどという情報)は重要だが、そのことによって何が変化したのかを考えなければいけない。 

 では、ボーカロイドとはどのような存在なのかを考えるにおいて、どのような手段を取ることがいいか。それにあたって、私は文字で表記された言語を人間が歌うのか、あるいはパソコンのソフトであり、ある種「楽器」であるボーカロイドに歌わせるのかの対立が重要になってくると考えている。20世紀後半の人物に、ジャック・ラカンという哲学者がいる。彼の思想は非常に難解で、日本でもその難解な彼の著作を受けつつ、多様な哲学が生産されているが、この論では彼における独自な世界の見方としての「想像界」「象徴界」「現実界」のことに限定して話をしたい[ⅱ]。 

 ラカンによれば、我々は現実に生きている世界そのものを見ることは決してできない。図1を参照しつつ、説明していこう。例えば目の前に「リンゴ」とよばれる、「赤い果実」があるとしよう。我々日本語を扱う日本人はそれを「リンゴ」という日本語と音で表現することができる。つまり、「赤い果実」と「リンゴ」が同じものを指すということは、一定の集団の中で共通の言語——つまり「日本語」といわれているもの——を使用している集団——つまり「日本人」——があるということによって保証される。それゆえ、集団内で共通して用いられていない言語(例えば“apple”という言語)を見たところで、日本語のみを用いており、その知識を共有する「日本人」の間ではこれが「赤い果実(日本語でいう「リンゴ」を指す物体)」を指すことを認識できない(無論、我々は英語を知っているので“apple”が何を指すのかは分かる)。このように、我々が言語を共有できているのは、共同体の水準で言語という「象徴」を共有している世界を持っているからである。このような、言語やその他の象徴を経由して共有されている世界のことを「象徴界」といい、感覚的、五感的なものによって共有されている世界(ここでは「赤い果実」)を「現実界」と呼ぶ。では「想像界」は何を指すのか。先に「赤い果実」という物体と「リンゴ」という言葉によって「現実界」と「象徴界」の関係を示したが、「想像界」とは文字通りに個人の中に存在する「想像=考え」であるといっていいだろう。例えば私のある「考え」があるとするが、この思想を自分以外の誰かに伝えたいとき、それは言葉という「象徴」を媒介としてのみ、伝達される。つまり、「想像界」も「現実界」と同じく何かの「象徴」がなければ伝えることはできないのだ。 

 非常に簡易的だが、まずは以上の前提だけ把握していただけると問題ない。では、この思想が一体本論とどう関係するのか。その問題を考えるにおいてのポイントは作曲者と演奏者(表現者)が別の人間であるがゆえの「象徴界」の重複のようなものがあると考えている。

3.個人的問題——ではどうしたいのか 

 さて、ここまでの前提のうえで、次に自分のこと、つまり私がなぜボーカロイドを使いたいと思ったかを考えてみたい。ukiyojinguは現在ボイスロイドを用いたポエトリーリーディングをしているわけだが、現在の形にたどり着くまでには歴史がある。実は、ukiyojinguはもともとボーカリストを入れた形でライブをしていたが、だが、あるタイミングで「ボイスロイドを使ってみよう」と思った時期があった。それは音楽において「誰」がそれを作るか、という問題が関係する。 

 ここから先は私の個人的な活動の振り返りでもあるが、若干道もそれるかもしれないので、ある程度読み飛ばしてもらっても内容の理解には大きな影響はない。だが、今から述べることは少なからず一つの具体例なので、少しだけ書いてみよう。 

 ukiyojinguは2016年の春に活動を始めた。現在(本文章を執筆している2018年9月~10月)こそ《都市》をテーマにしながら音楽を作っているが、自分が音楽を始めたころは特に何も考えていなかった。そのため、昔はボーカリストもいたし、ポエトリーリーディングもしていなかった。それもあってか、地元のライブハウスではそこそこの評価もいただいたし、(ライブハウスに詳しくないとわからないかもしれないが)いわゆる「自主企画」も行った。しかし、ボーカリストがいた形式でのライブは2017年3月を最後におわり、2017年4月ごろにVOICEROID初楽曲として「fraction」(リンク先はニコニコ動画)を公開した。これがukiyojinguのニコニコ動画初の曲である。 

 さて、私はギターを弾いている人間で、同じ境遇の人間なら少なからず共感できるところはあるかもしれないが、俗に「ギターボーカル」という言葉や「弾き語り」という言葉にあるように、ギターとボーカルはセットになることが多い。ukiyojinguも一番初めの段階では私がボーカルしていたこともあった。さらに、途中で自分の声でない声で音楽を作りたいと思った時も、やはりボーカロイドに走らず、別の方にギターを教え込んだうえでギターボーカルにさせることも考えた。だが、この「他人に歌ってもらうことで作り出されている音楽」が一体何なのかに気づいた際、私の中で事態は変化したのである。 

 ここに内包する問題とは「作曲者」と「ボーカル」による解釈の違いとは何か、そこに両者は共通の「象徴」を行っているのか、ということだ。作曲者が自らでボーカルをせずに、他者であるボーカリストにボーカルをしてもらうことは、何を意味するのか。先の精神分析の考え方を取り入れれば、音楽による自己表象は絶対的に他者からは観察できない「絶対的な私」そのものを象徴する行為であり、すなわち作者の「想像界」を自己表象によって「象徴界」の世界に出現させる行為であるといえるだろう。その時、作曲者が自己表象を行う際、どれだけ自らを純粋に自己表象することが可能なのか。このことを考えるとき、必然的に「他者」であるボーカリストの介入は許されなくなる。その理由はいたって簡単だ。つまりは、他者である以上、「絶対的な私」の領域としての「想像界」にその人間は侵入できない。完全な個人の自己表象として音楽を作ることを考えるのであれば、その究極形態は一人になることだ。そこで他者が入ることによって、他者は他者の内部にある「想像界」に従って自己表象をし、それを「象徴界」にとどまらせる。ここに作り手が異なるゆえの「象徴界」の重複がある。作曲をしないボーカリストとはこの時点で、いわば作曲者とは別の存在であるが「別の作者」なのである。 

 無論、この結論は非常に極端であるし、あらゆる協働的創造の価値を根底より否定することにもなる。私は特にニコニコ動画の引用ネットワーク関係(濱崎, 2010)によって作り出される創造環境は非常に肯定的に捉えるし[ⅲ]、さらにロックバンドをはじめとしたバンドで演奏をする人間がこのような考え方を極端に持つことは、バンドの維持に致命的だ。しかし、ukiyojinguには一つの実現不可能な目標がある。私が《都市》をいかにして眺めるかを考える際、私は現象としての都市(つまり、一人の人間の認識のフィルターを通して認識される都市)ではない、物体そのものとしての《都市》——つまり「現実界」の都市——がいかにして観測できるかを、現在最も中心に据えて考えている。つまり、いかにして人間の「象徴」を経由せず、「現実」としての《都市》そのものを描写ができるのか、ということだ[ⅳ]。無論、私も一人の人間だ。そのため、完全に客体化された《都市》の観察はできない(もしそれが可能なのであれば、私は意識も無意識もなくならなくてはいけないし、そのような状況に陥ることはできない)。しかし、仮に《都市》を記述する作業において(重ねて言うが、記述もある種の表象なので、《都市》の記述はは不可能なことなのだが)より純粋な《都市》を観測するという難解な作業をすることを試みるのなら、作業はその難解さゆえ、多人数で行うほど主題は不明瞭になり、手っ取り早い結論に足をつける可能性もある。もちろん、この問題をより突き詰めていくことになると《都市》をその土地に根付くものなのか、あるいは人間の集団共同体を指すのかという問いも考えなければならない[ⅴ]。このように、課題が多く存在する中で、ukiyojinguは純粋な物体そのものへの探求を行うために、一度他者という認知のフィルターを外す試みをしたのだ。これがはじめに書いた「象徴界」の重複のようなもの、の正体だ。 

4.本質的問題——ボーカロイドの存在論 

 以上の私の精神分析という思想を通した経験から、私にはボーカロイドとは一体何かを考えられる重要な道筋があるように思える。前節では私は作曲者とボーカリストとの間の「想像界」の重複について考えたのだが、ではこの問題はどのように解消できるのか。ここまで読んでいただけるとおおよそ察していただけると思うが、私はこの問題に対して非常に大きな貢献をする存在こそ、ボーカロイドなのではないかと考えている。そこには、二つの理由がある。一つはボーカロイドが「想像界」を持たないこと、そしてこれに連関して、徹底的に「主観性」と「客観性」の両者を排除できること、この二つである。 

 一つ目から考えよう。そもそも、ボーカロイドとは何か。その最もシンプルな答えは「シンセサイザー」である。かなり冷ややかな見方をすることにもなるかもしれないが、それは少なからず「楽器」であり、意志を持った生命体ではない。そのため、ボーカロイドにはそれぞれの「キャラクター」を持ってはいるものの、それはいわば商業的な戦略でもあり、表層的なものにすぎず、そのためにボーカロイドが歌う歌詞は前節で考えたようなボーカリストの「想像界」がない。無論、後述するが私はこの商業的戦略として打ち立てられたキャラクター性を軽視するつもりはないし、その存在は無視できるものではないだろう。それはまさしくクリプトン・フューチャー・メディアが「ネギ」のような存在を想定できなかった事実に根拠づけられる。しかし、それらの創造性は元来、初音ミクという存在がもともとの「キャラクター」としての性質の希薄さが背景にあるゆえに可能になったものだ。つまり、ニコニコ動画において多数の創造性が生まれた背景には、やはり事実として初音ミク、いやボーカロイドそのものが「楽器」であるという前提が存在する。 

 この一つ目の性質——つまり、ボーカロイドは根本的には楽器であるがゆえに、その声には決して歌い手の「想像界」に相当する要素がないこと——を根拠に据えることによって、私がボーカロイドを先の問い——いかにして《都市》を記述しうるか——に対しての大きな貢献をするものだと考える理由の二つ目が説明できる。ボーカロイドは「徹底的に主観性も客観性も排除できる」と先に書いたが、これについて説明しよう。ここで現れている「主観性」と「客観性」は立場が異なるだけであり、実質同じものを指している。 


 この説明のために、少し話を戻して考えたい。前節で私はukiyojinguの過去を例にして作曲者とボーカルの関係を検討したが、この問題を図でまとめると図2のようになる。ここでは主に作曲者(以後「作者」)の視点に立って、主観と客観を記述している。この中における作者は自らの自己表現として、自らの主観によって楽曲という作品を生成しているわけだが、ここで形成された作品そのものの背景に存在している作者自身の内面——つまりは「主観」であり「作者の『想像界』」ともいえるもの——を作者ではないボーカル(=表現者であり、「別の作者」)が認識することはできない。そのため、他者であるボーカルは自らの「主観」によって表象を行うことになり、このボーカルが行う表象と作者が意図していた表象が完全に一致することはあり得ない。そのため、この図では主観は二つの矢印となっている。また、作者から見たとき、ボーカルがそのボーカリストにおける「主観」として表象する行為そのものはあくまでもここでの作者から見たときの「主観」による表象行為ではない。そのため、灰色で枠づけた範囲そのものは作者から見た「客観」である。 

 この図2における「作者」と「ボーカル」との立ち位置を変化させても、構造は変化しない。ボーカルはあくまでも「別の作者」であり、楽曲作成においてボーカルを別に用いるか否かという問題はこのようにある種の「別の作者」を介入させるか否かの問題に収集する。この構造に対して、根本的に自分の声ではないボーカロイドを用いることは、この構図を破壊することにもつながる。まず図2で示した「別の作者」であるボーカルがいなくなることによって、楽曲の作者にとっての「客観」は消えることになる。その一方で、ボーカロイドを用いて歌わせるということは必然的に「自らの声で歌わない」という意味も生じさせる[ⅵ]。それはある種の「気持ち悪さ」でもあるだろう。なぜなら、完全なる自己表象を行う際に最も適切な方法は、自らの声で歌うことだからだ。これについてはより深く検証する必要もあるだろうが、ボーカロイドが出てくる以前に「他人に歌ってほしくない」などと考えたとき、作曲者は自ら歌う以外に方法はなかったはずだ。このことはつまり、ボーカロイドに歌を歌わせることがつまりは「客観性」を排除すると同時にある種の「主観性」——つまりは自分が歌うということ——を排除しているということになる。 


 以上のように言えば、ボーカロイドに歌を歌わせることは結果として
①本来は他者に歌わせる(他者の主観=客観を介入させる)ものを「楽器」に歌わせる…客観性の排除
②本来は自分で歌うものを「楽器」で歌わせる…主観性の排除(「気持ち悪さ」)
ということが可能である。以上が、ukiyojinguの創作活動の系譜から考える「ボーカロイド」の存在論だ。 

5.おわりに——ボーカロイドに感情はあるのか 

 さて、本論では精神分析とukiyojinguという活動の系譜を追いかけながらも、ボーカロイドという存在が一体どのようなものなのかを検討することができたと思う。ボーカロイドに歌わせることはつまり自らの作品を創作するにおいて客観性を否定することでもあり、その一方でやはりボーカロイドが自らの声ではないという意味で根本的に主観ではない以上、主観性をも否定しているのではないだろうか。しかし、この二重の否定こそ、ukiyojinguが主観でも客観でもない《都市》をいかにして記述するのかについての問題解決に大きな貢献をするのだと考えている。 

 本論では一貫して、ボーカロイドはあくまで「楽器」であり、それゆえに感情を持たない、そして感情を持たないが決して作者そのものにはなれないために特異的な存在であると考えた。そのため、ボーカロイドには「感情」がないという立場を取っている。だが、ボーカロイドに「感情」はないと言い切ることは難しいだろう。これまでの議論で、作者の楽曲に込めた「主観」をそのまま理解することはできず、それは楽曲という「象徴」を通して理解できるのだということを繰り返してきた。この前提を踏まえるのであれば、ボーカロイドという存在に「感情」があるかどうかと問うことはまるで「作曲者に感情はあるか」と問うことに等しい行為だ。なぜなら、人間個人に内在する「想像界」はあらゆる「象徴」を通して理解されるのであれば、我々は真の意味で「想像界」を知らない[ⅶ]。この想像界=完全に個人の内面の世界を仮に「感情」と名付けていいのであれば、私たちは「感情」を知らず、そしてそれを知らない以上、人間には「感情」はないのではないか、ともいえることになる。この次元にまで至れば、ボーカロイドも人間も等しい。私たちは他者を「象徴」でしか知りえないことはここまで何度も繰り返してきた。そしてボーカロイドはニコニコ動画上で創作された無数ものキャラクターが付与され、その存在は「象徴」のみであるが、ニコニコ動画の環境が初音ミクに対して「感情がある」と考え、それを象徴として設定されたキャラクターの多さは、実際の人間をはるかに超えるだろう。その無数につけられたキャラクターこそ、本当は存在しないはずのボーカロイドに「感情」を与えているのではないか。これについてはまた多くの議論ができるだろうが、本論ではこれ以上は立ち入らず、ここで終えることにしたい。 

#音楽 #ukiyojingu #vocanote #VOCALOID #哲学

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[ⅰ] 柴邦典, 2014, 『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』太田出版.その他、小山友介,2013,「初音ミク——N次創作が拓く新しい世界[in Japanese]」『システム/制御/情報』57(5): 189-194.
[ⅱ] Fink, Bruce, 1997, A Clinical Introduction to Lacanian Psychoanalysis: Theory and Technique, Cambridge,Mass.:Harvard University Press.( 2008,中西之信・椿田貴史・舟木徹男・信 友建志訳『ラカン派精神分析入門 理論と技法』誠信書房.)が詳しい。また本論では扱わないが、斎藤環, 2011『キャラクター精神分析——マンガ・文学・日本人』筑摩書房.はラカン理論で現代サブカルチャー批評をする著作になっている(わずかだが、初音ミクのことも取り上げられている)。[ⅲ] 濱崎雅弘・武田英明・西村拓一,2010「動画共有サイトにおける大規模な協調的創造活動の層月のネットワーク分析——ニコニコ動画における初音ミク動画コミュニティを対象として」『人工知能学会論文誌』25(1): 157-167.
[ⅳ] 以降の文章では、実際に我々の認識できる「象徴界」の都市と誰にも認識できない「現実界」の都市とを区分し、後者をカギカッコとともに《都市》と表現する。
[ⅴ] 現実界の中に存在する《都市》が一体何かを考える際、それが何かはいかなる手法によっても判明はしない。また、象徴を経由して都市を検討するにも、その都市の本質を「それを構成する土地や建造物の配置」として見るのか、あるいは「それを構成する人間たちが繰り広げる社会の様相」ととるのかで、象徴のされ方は大きく異なってくるだろう。
[ⅵ] もちろん、例外も多いだろう。ピノキオピー氏は10年代中盤から初音ミクと一緒に歌っていることも多い。
[ⅶ] これは後期ラカンの思想において言われることでもあるが、詳細は省略する。なおラカン思想について詳しくは次を参照.松本卓也, 2018『享楽社会論——現代ラカン派の展開』,人文書院.

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