「母親」の亡霊——「サマーゴースト」の精神分析的「余白」
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「母親」の亡霊——「サマーゴースト」の精神分析的「余白」

ukiyojingu

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はじめに

 深夜2時の河原町通り沿いを走っていると、イチョウの黄色くなった葉が側道を埋め尽くしているのが目に入ってくる。その光景を見ながら、秋はおろか、夏さえもが既に遠く過去の光景のように思えてしまう。とはいえ、まだ数カ月しか経っていない今年の夏をまるで「過去の思い出」と言い切るのは、私にとって違和感でしかない。今年の夏は紛れもない過去ではあるのだが、まだ完全な過去ではない。そんな繊細な距離感とともに、私は夏を想起する。

 すでに季節は冬になっているはずなのに、私の心情はずっと夏だった。先日「LOCUST」にて公開されたカゲプロ論の骨格が形成されたのは、ちょうど8月ごろだ。そこから12月の最終公開に向けての日々は、本年度で大学を修了する予定の自分にとって、文字通り「今年の夏休み」である。そんな夏が終わり、じきに秋も終わろうとしているなか、私は「夏」という言葉をタイトルに掲げた一本の短編映画を見た。loundraw監督によるアニメーション映画「サマーゴーズト」だ。もはや2分台ですら「短い」といわれなくなってきているボカロの楽曲をはじめ、動画投稿サイトの短いインスタント動画に慣れてしまった自分にとってはせいぜい20~30分程度でも「長い」と感じることがある。いつのまにか2時間超の長い映画を見ることができないほど堕落した自分にとって、わずか40分というこの短い上映時間はとても親切に思えた。「短いし、だったら見に行くか…。」そう思い、私は某日夕方18時ごろ、自転車に乗り近所の映画館に向かったのであった。

幽霊と出会う物語

https://summerghost.jp/news/detail/?id=1093231より

「サマーゴーストって知ってる?」

ネットを通じて知り合った高校生、友也・あおい・涼。
都市伝説として囁かれる“通称:サマーゴースト”は若い女性の幽霊で、花火をすると姿を現すという。

自身が望む人生へ踏み出せない"友也"
居場所を見つけられない"あおい"
輝く未来が突然閉ざされた"涼"

作品HP イントロダクションより https://www.summerghost.jp/

 40分という上映時間は、映画にしては短編だ。そんな時間を通してめまぐるしく展開されたのは、少年少女たちの「出会い」と「別れ」の物語である。ネットを通じて知り合った高校生である「友也」「あおい」「涼」の三人は、都市伝説として知られる若い女性の幽霊「サマーゴースト」に出会うため、とある喫茶店に集合することから、物語が始まる。「とある飛行場、とある時間に花火をすることで『幽霊』が現れる。」そんな噂から集まった三人は思惑通り、「サマーゴースト」こと「綾音」と出会う。「自分は死を望んでいる人の前にしか出現しない。」そう述べる彼女は、三人に「なぜここに来たのか」を問いかけていく。いじめを受けるあおい、病に侵されている涼の二人には「死を望む」理由は明白だ。しかし、主人公の友也はそうでもない。成績優秀であり周囲からも認められいる彼は、実は絵を描くことが好きである一方で成績に執着する母親の影響でそのことを抑圧してしまっていた。母親との軋轢を抱えながら高校生活を過ごす彼はいつしか、カンバスと画材用具を自室クローゼットの奥深くへ押し込んでしまっている。そんな彼に対し、まるで自身を全面的に肯定するように、「サマーゴースト」こと綾音はふるまう。まさに魂の趣くまま、自由に漂っている彼女に対し、彼の脚はいつしか学習塾ではなく、幽霊たる彼女のもとに向かうようになってしまった——たった一人で、彼女を召喚するために必要な量の花火を携えながら。

 逃避行のように幽霊と戯れ続けた友也は、自身が殺害されたことを綾音に打ち明けられると同時に、そして自身の死体を見つけ出してほしいという望みを打ち明けられる。受験を目前に控え、母親との軋轢をなおも抱えながら、友也は現実にはいない「幽霊」に縋られ、死体を探す。死体捜索はやがて、友也自身にも大きな変化をもたらしながら…物語全体の結末はさておき、大きなあらすじはこのようなものだろう。中心になるのは「友也」と「綾音」の二人だ。これは紛れもない事実だが、映画を見た私はここにもう一人、付け加えたい人がいる。それは物語にしきりに登場するあおいでも、涼でもない。それは友也の「母親」だ。

母親の父親化、そして母親の不在

 母親から離反し、幽霊と戯れる物語。そんな「サマーゴースト」において、母親の存在は無視できない。なぜなら、友也が幽霊と戯れるきっかけを提供した存在として、少なからず母親の影響は大きいからだ。彼女は友也を抑圧し、受験生として自覚を植え付けようとしている。本当は絵を描いていたいが、それは母親には打ち明けられない——まるで付け入るスキを見せないように厳しい姿勢を崩さない母親のそれは、いわゆる「母親」の姿には縛られない。理知的でありながらも頑固な姿勢は、どちらかといえば「父親」の印象を覚える。

 「父親」のように母親が振る舞うのだとすれば、では「父親」はどう描写されているのだろう。そういう問いが生じてくることは決して不自然なことではないように思える。しかしながら——ここが最重要な点であると思うが、本作品にて父親は一切描写されない。少なくとも、私の知る限りでは物語で友也の父親に関する描写はなかった。存在が、語られないのだ。この不在は、友也はおろか、どの登場キャラクターにも共通する。あおいに関しては描写はなく、涼は病院で診察を受ける場面でわずかに両親について言及がされるにすぎない。それだけでなく、サマーゴーストたる綾音も同様であり、物語中に母親は登場すれど父親はまるで語られない。どの少年少女にも共通する父親の不在。その徹底的までともいえるあり方は、こと主人公の友也の視点においては母親の「父親」化を促した。結果的に、本来の「母親」が欠如している。この屈折した欠如は決して、無視すべきものではないだろう。

 こうして考えると、友也が綾音へ接近していくのはある意味で必然であるかのように思える。綾音は本当は絵を描きたいという友也の内心に対する、数少ない理解者として描かれる。幽体離脱した友也を美術館に連れ出すなど、彼女は友也のやりたいことを叶え、友也の思うままのことを肯定する。その姿勢はまるで、友也の実際の家庭で欠落している「母親」を補填するよう立ち回っているのだ。母親が「父親」と化すことで、象徴的「母親」が欠落してしまった友也。そんな彼にとって、自身を積極的に肯定してくれる綾音の存在はまさに「母親」である。欠落した「母親」に対し、その面影を幽霊に追い求める友也はまさに、「父親」に反抗して「母親」へ依存しているようだ。しかしながら、「母親」たる綾音は「サマーゴースト」であり、幽霊である点を私たちは無視するわけにはいかない。友也と綾音の間にはもはや乗り越えられることの不可能な境界線があり、この境界線ゆえに、友也による綾音への依存がどこかで断念されてしまう。限界が目に見えている「母親」の寵愛は、しかしながら「父親」の厳しい視線しか向けられていない友也にとっては大きく魅力的な存在になってしまう。このことは、もはや言うまでもないだろう。

精神分析的視点——友也をめぐるエディプス的三者構造

 さて、こうした親子をめぐる問題を考えるにあたって、想起するべきは精神分析における「エディプスコンプレックス」だろう。20世紀の代表的な心理学理論である精神分析の創始者フロイトが提唱した本概念は、子どもの自我発達に関する発達心理学研究に大きな貢献を成した議論だ。人間の欲動をいわゆる「性欲」と関係させる精神分析において、自我が未形成の子どもにおける最初期の性的欲求対象として、最初に出会う女性である母親の重要性が説かれる。幼年期において、少年は母親との近親相姦願望を抱く。だが、しかしその願望は「禁止」させることで断念されてしまう。母親への近親相姦を制止し、それを禁止ささせるのは父親によってされる。制止を受けた少年はあらゆる欲望の全てが決して思いのままにならないことを理解し、やがて社会的に自己を抑圧することが可能な自我を形成することになる。概略ではあるものの、以上がフロイトのいうエディプスコンプレックスの理論だ[1]。ギリシャ神話における「エディプス王」の物語を参照することで提示された本概念は、人間発達において普遍的に経験される要素として主張された。その議論は一方で男性中心主義的であり、さらに人間の欲望のすべてを性欲に還元させてしまう態度が後に批判されて行くものの、精神医学や臨床心理学の議論に限定されることなく、映画作品への精神分析的批評をはじめ、20世紀以降の哲学にも大きな影響を与えた点で決して無視できない議論だ(なお、おそらく今でも高校の「現代社会」の教科書冒頭に登場する「ヤマアラシのジレンマ」は、フロイトによるものだ)。

 映画に話を戻そう。本作品における友也は、まるで「父親」と「母親」との間で翻弄され続けるエディプス王のようだ。彼には象徴的「母親」がいない——実際の母親は父親の欠如を埋めるように「父親」へと変貌している。そこで、友也は原始的な近親相姦願望、エディプス的願望を向ける対象をある意味で喪失しているだけでなく、「父親」と化した母親によって、「母親」がいないにも関わらず、「父親」からの制止を受けている。ひたすら受験へと友也をいざなおうとしているその姿勢は、まさにそれに該当する。そこで友也は綾音と出会う。どこまでも友也を肯定する彼女の姿勢はまさに「母親」に相応しいものだが、しかし彼女への過度な肩入れ——エディプス的願望の増大化は、やがて「父親」に発見されてしまう。友也は学習塾をさぼって綾音のもとに向かっていることが母親によって発見されてしまい、自己の行動を制限させようとする。それによって、再度「母親」の優しい胎内から、間近に迫った「受験」という問題へと直面させようとするのだ。そうした様相は、「母親」との近親相姦願望に対する、父親の静止というエディプスコンプレックスの構造に同じだろう。友也は「父親」=母親の目を盗んで「母親」=綾音に会いに行っていたのだが、それに気づいた「父親」が再度友也と「母親」を引き離そうとする。どこまで行っても「幽霊」である「母親」=綾音との接触を絶たせることによって友也を現実社会へと適合させる——受験生として受験に向けさせるという行動は、精神分析的に言えば父親からの「禁止」を受けることによって友也が現実に適応した自我を形成させる過程と同じであり、そこにはあるのは、高校生という貴重な少年期を過ごす彼自身の自我形成過程であるのだ。

異なる視点——分析心理学的における統一された象徴を求めて

 しかしながら、このエディプス的三者関係では、まだ批評として語り切れていない「余白」が存在しているように思える。それは綾音が幽霊であることに関係している。先に私は本作品における特徴の一つとして「父親」の欠如について述べたが、綾音が幽霊であることはいわば本作品における、もう一つの欠如とも言える。幽霊である綾音に近づくことは、言い方を変えれば「死」に接近していくことだ。この点を考える必要がある。

 精神分析において「死」を考える際、晩年のフロイトにより提示された「死の欲動」という言葉が想起されるべきだろう。「快感原則の彼岸」と「自我とエス」の二論文によって語られた「死の欲動」の議論は、既述したエディプスコンプレックスの議論を展開していた時期のフロイト――前期フロイトと称されることが多い——から見ておよそ8年後に執筆された、後期フロイトの代表的議論として提唱された[2]。本概念は従来の精神分析の概念における性的理論とは別のものとして、自ら死を望むような願望たる「死の欲動」の存在を主張するものだ(なお、従来の性欲動は「生の欲動」と称される)。自らを死へ向かわせるエネルギーと、自らを生に向かわせる二つのエネルギーが均等に存在することによって、自我はその存在を維持できるのだ。

 さて、こうした視点より友也の視点に立ち返って考えてみるとどうだろう。綾音に接近するということはつまり「幽霊」へ接近することであり、したがって経験的に「死」へ接近することだ。実際、物語中ではまるで幽体離脱するような描写が幾度もなされ、それによって友也は綾音と同じように空中をさまようことができるのだが、綾音と同等になっているということはすなわち、幽霊になっていることであり、「死」を経験しているということになる。綾音は「母親」であるのと同時に、それは幽霊であるがために「死」の象徴だ。先のエディプスに関する議論において母親が近親相姦対象として語られることを示したが、それは「生の欲動」の対象として考えられるべき存在だ。しかしながら、綾音が幽霊であるという事実によって、それは「死の欲動」の象徴としても解釈可能な余白が生じている。「生」と「死」という対立すべき存在が、綾音という「母親」には内包されているのだ。こうした視点は、エディプスコンプレックスの視点に収まらず、ひいては精神分析批評の射程外部にもあるような要素ではないだろうか。

 両義的な彼女に対する精神分析的視点からの批評には、おそらく解釈の「余白」が残ってしまう。では、精神分析とは異なる視点はどうだろう。フロイトの弟子でありながらも彼とは別の道を進んだ精神科医のカール・グズタフ・ユングは、人間形成に際して自身の「影」たる存在と対話することで、無意識と意識を統合するという「個性化」の過程を、自身の議論を構築した最初期の論考である『無意識の心理』という著作で残している[3]。フロイトが提唱した性的発達段階論と比較して老年期のそれに注目を当てたユングは、自己の無意識=影との対話という、まさに対立物の統合を目指すことを目標にしている。こうした彼の視点から見ると、綾音という「生」と「死」を兼ね合わせた存在はまさに統合の象徴であり、友也が綾音に接近していく様相は、「母親」を欠如した彼が欠如のない存在である綾音を欲することで、友也自身が欠如のない存在へと至る為のある種の過程に見えてくる。物語の終盤にて友也は自分自身と対話するシーンが流れるが、これはまさしく「影」との対話だ。

 しかしながら、分析心理学的な統合は自己の内面で生じるものであり、最終的に自己の問題なる以上、母親からは独立して自己を形成する必要がある。物語になぞって言えば、友也はどこかで綾音と決別する必要があるのだ。ユングの弟子である分析心理学者エーリッヒ・ノイマンの『意識の起源史』では師匠たるユングの元型論を継承しながら[4]、膨大な量の神話と象徴の分析によって、「母親」という象徴が全てを受容する存在である一方ですべてを自身の「胎内」に引き戻すような強烈な引力をも含むことを指摘している[5]。それになぞるように、綾音は死体探しを友也に懇願することによって、自身の側——「死」へと友也をいざなっている。物語の最終局面では綾音との別れを拒むもう一人の友也との対話がなされる——友也自身の「影」との対話がなされる——が、そこでもう一人の知也は当初、綾音の姿で登場している。実際な場面はぜひ劇場で確認していただければと思うが、最後のシーンで描写されるのは自身の胎内へ友也を回帰させたい綾音との決別の描写であると同時に、「母親」と決別することによって友也自身の問題へと変化する——友也自身の「影」との対話へと、問題が変身した瞬間であったのだ。

おわりに

 本作品は精神分析的な構造を一見して見て取れるものの、一方で精神分析的構造——エディプス的構造に対して完全に一致しないような、繊細な距離感を保った作品である。その距離感に対し、分析心理学における対立物の統合過程より接近してみたが、それでもなお、分析心理学的批評を全面的に押し出すことがすべきではないだろう。批評を書くにおいて理論を参照することは重要だろうが、その理論が決して作品の全てを語り切ることなど、決してないからだ。そこにあるのはやはり、本稿後半で何度か用いた言葉である「余白」だ。「サマーゴースト」というタイトルを掲げた本作品が夏をテーマにしつつも、11月に公開された。そこにあるのもやはり「余白」だろう。この余白に従って、あえて批評的な余白を意識することは、本作品をさらに深いものへと変貌させてくれるかもしれない。「余白」を置くこと、「余白」を通して向こう側を想起すること。そうして、私は既に過ぎ去ってしまった私の夏を、イチョウが枯れ落ちた12月に思い返すのだった。

[1]以上の議論は、フロイトが1915年から1917年にかけてウィーンで行った講義録である『精神分析入門』などを参照することで体系的に理解できる。ジークムント・フロイト『精神分析入門(上・下)』、高橋義孝・下坂幸三訳、新潮社、1977年.
[2]晩年の議論は『自我論集』を参照。ジークムント・フロイト『自我論集』、中山元訳、筑摩書房、1996年.
[3]カール・グスタフ・ユング『無意識の心理』、高橋義孝訳、人文書院、1977年.
[4]ユングの「母親」についての議論は次を参照。カール・グスタフ・ユング
『元型論(増補改訂版)』、林道義訳、紀伊国屋書店、1999年.
[5]エーリッヒ・ノイマン『意識の起源史(増補改訂版)』林道義訳、紀伊国屋書店、2006年.


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ukiyojingu