「ボカコレ」とニコニコ動画の地層について
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「ボカコレ」とニコニコ動画の地層について

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はじめに

 2021年10月14日。眠い目をこすりながら、大通りの騒音によって目が覚めた。昨晩は深夜遅くまで作業をしていたが、どうしても眠くなってしまった私は深夜3時半に眠ってしまい、起きたら昼の13時半だった。木曜日と日曜日が休日なので、仕事をすっぽかしていなかったことが不幸中の幸いだ。昨日の夜は起きたらすぐに続きに取り掛かろうと、デスクトップPCの電源は消さず、モニターだけを切って眠っていた。頭が十分に働かないまま、私が眠っている間も無駄に起動していたデスクトップPCの様子を確認するため、モニターの電源スイッチを押す。

 数時間ぶりに光を取り戻したモニターには、デスクトップ版Twitterが表示されている。特に最近は忙しい毎日の中でSNSを見る機会もだいぶ少なくなってしまったと実感しながら、とはいえ起床後はほぼ確実にTwitterを開いているような気もすることに、自分のツイ廃加減が。10月うかがえる。10月14日のタイムラインは、多くのボーカロイド楽曲の新曲公開の告知ツイートで騒がしかった。タイムラインは私に、本日10月14日が『ボカコレ』の初日であり、多数の「新人ボカロP」が楽曲を投稿する日であることを思い出させる。

 2020年に開始されたボカコレ(Vocaloid Collection)は、今回で3回目の開催になる。ニコニコ動画が主催する「超会議」のボカロ版と公式にも言われているこのイベントは、今や若手ボカロPの登竜門のためのイベントのようになっている。「TOP100」「ルーキー」「リミックス」枠といった複数のカテゴリに分類されながらそれぞれの分野で再生回数を競い合う様相はまるで、数値が全てであることを肯定するアルゴリズムの論理によって支えられたインターネットが具現化された姿のようだ。楽曲を投稿するボカロPたちはそれぞれのジャンルの中で新曲を公開し、あるいは既存曲のリミックスをしたり、あるいは歌ってみたり、演奏してみたりして動画を投稿し、それらを通して互いに再生回数を競い合い、あるいは新しい発見をする。見事ランキング上位に入り込んだオリジナル楽曲に関してはCD音源としてリリースされたり、そこから大ヒットボカロPへの道も開けるようになっているのは本イベントの大きな特徴の一つだ。そうしたシンデレラストーリーを夢見ながら、10月14日から10月17日の数日間にかけて、数多くのボカロPが楽曲を投稿した。

 すでに始まってしまった祭りを前に、すっかり参加するタイミングを逃してしまったと思いながらも、私はどんな楽曲が投稿されているのかを見てみる。ニコニコ動画に音楽を投稿する私にとって、このイベントは無視できないものであることは紛れもなく、当然、この日に合わせて新曲も投稿した。とはいえ、いまいち再生回数との距離間を図り切れなかった私は、このイベントに対してどう接したらいいのか、分からずにいる。投稿者の皆が再生回数という欲望に駆動されていることを私は否定しないし、すべきでもないと思うが、だからこそ、そこからの距離感の図り方を考えてきた私に、このイベントをどのようにとらえたらいいのかが分からない。私は一体、何を悩んでいるのだろうか。そのことを考え始める。

ニコニコ動画と2ちゃんねるの空間

 私にとって、このイベントはまるで2000年代のゾンビの姿に見えていた。というのも、ニコニコ動画そのものが2000年代のインターネットの在り方を一方で一貫して維持しながら——もちろん、ニコニコ動画は「だからこそ」良いのだが——、他方でそうした昔の感覚が現代の感覚の間に強い摩擦感を発生させているように感じるからだ。そうした問題に関して、私はかつて国内ネット文化について2つの異なる方向性について書いたことがある。なにせ10,000字を超える文章の詳細をここで述べることはできないが、論旨だけは簡易的に示しておこうと思う。

 1990年代に発生したインターネットはグローバルに世界を接続する思想を持ち、そうした思想は2000年代においてある程度の形で実現を果たしてきた。2020年代の今を生きる私たちにはもはや遠く過去の話しであるが、90年代~2000年代のインターネットに内包された思想は本気で世界中を一つにすることができると考えていた。メディア論の権威たるマーシャル・マクルーハンはインターネットの登場とともに「グローバル・ヴィレッジ」という言葉を発明し、その言葉に呼応するように数多くのインターネットを利用した新しい芸術的実践がインターネットの希望を表象していった。そうした思想は2000年代にも継承され、初音ミクはそうした「人と人をつなぐ思想」におけるアイドル的存在として受け入れられていくことになった。私はこのことについて、先に挙げた文書ではYouTubeに投稿された楽曲であるlivetuneが作曲した「Tell Your World」を参照して、その分析をしている。「いくつもの点は線になって全て繋げてく」のは、当時の思想を色濃く反映しているのは言うまでもない。こうしたYouTube上で展開されるグローバル思想に対し、あくまで国内向けという閉じた環境をターゲットにしていたニコニコ動画は、それ以前の2ちゃんねる的文化を継承したドメスティックな文化だ。日本のネット掲示板文化はその登場以前からあったオタク向け雑誌における投書欄が発展する形で登場し、そうした文化は2ちゃんねるにおける匿名性といった、当時の海外と比べても異様な独自文化を生み出していた。ユーザーの全員に匿名というヴェールを被せることによって平等な扱いにすることを可能にした当時のネット文化は、そうした構造を逆説的に利用することで独自文化をいくつも生成してきている。2ちゃんねるの代表的なコピペやフラッシュ動画に登場するキャラクターたちはまさに、そうしたコンテンツを象徴する存在だった。悪ノリを内包しながら進化するドメスティックな国内ネット文化はやがてニコニコ動画へと発展、初音ミクと数多くのボカロ楽曲たち、そして「ネギ」をはじめとした独自なものたちを生み出したことについては、この文章を恐らく読むであろう読者の皆さまにとってはもはやいうまでもないことだろう。

 このように、初音ミクは片やグローバルな思想のアイドルとして、片やドメスティックな悪ふざけのツールとして受容されていった。

数学的社会と、再生回数にとらわれて

 1990年代に生まれ、2000年代に花開いたグローバル/ドメスティックなネット文化たち。それらは諸問題を含みながらも、インターネットの創造性を決して否定するものではなかった。しかしながら、そうした思想は来る2010年代に否定され、大きな揺り戻しを生じさせた。インターネットがプロトコルの論理によって支配されていることを主張した哲学者のアレキサンダー・ギャロウェイがいうように[1]、ネット文化は基本的にはアルゴリズムで翻訳可能な要素しか伝達することができない。しかしながら、2011年に発生した東日本大震災において、私たちは理屈ではどうにも説明不可能な惨劇を目にしてしまう。到来する津波、出来上がってしまった瓦礫の海。それらは決してアルゴリズムで説明できない悲惨さを保っていた。ネット文化はおろか日本史上にも名を刻むだろう大震災の悲惨さは、ネットの限界を私たちに提示し、ある意味での現実主義へと私たちを連れ戻していく。そうした反動は初音ミクとニコニコ動画にも影を落とした。2012年に公開された初音ミクの代表曲「ODDS & ENDS」の歌詞には、それ以前のボカロ楽曲には詰め込まれた夢が失われている。なにより、彼女は自身を「がらくた」というのだから。2000年代に起きた瓦礫の山に対するアルゴリズム的限界から始まった2010年代は、今だにその影響を色濃く残している。「マジカルミライ2020」のテーマソングは「愛されなくても君がいる」という、いかにも否定的なニュアンスを含むものであった。「マジカルミライ2021」のテーマソングの「初音天地開闢神話」は、グローバルな夢みたころの初音ミクよりもさらに最初期にあたる、2007年ごろのニコニコ動画を思い出させ、私に(本当は知らないのだが)ある種のなつかしさを提供してくれた。

 こうした変化は、ユーザーたちが自ら繋がりつつ、自分たちで環境を盛り上げるような時代に登場した最初期のニコニコ動画を半ば強制的に別のものへと作り変えてしまう。大きく方向性を変えた初音ミクはその代表的存在でもあるし、かつて内輪の悪ノリ的空気に包まれていたニコニコ動画は今では有名作曲家のための登竜門である。そうした変化は、ある意味でニコニコ動画にユーザーが楽曲を投稿する意義を失わせ、YouTubeをはじめとした外部SNSへの流出をも招いている原因かもしれない。作成されたボカロ曲はTwitterで告知され、そしてYouTubeにも投稿される。2ちゃんねるの悪ノリ的空気をも持ちながら創造的な空間として醸成されたはずのニコニコ動画——もちろん、その中核にあるのはユーザーたちの主体性である——は、2010年代のなかで確実に衰退した。その衰退とともに登場したSNSの時代は、「フィルターバブル」という概念に象徴されるように、かつてないほどに情報操作によってユーザーが管理されていく時代だといえる[2]。再生回数の多い動画が価値のある動画であるということが肯定される世界が作られ、そうした呪縛の中でユーザーは活動を続ける。今の時代ほど、再生回数を意識しなければいけない時代はなかったのではないだろうか。こうした変化を、私は一体どのようにして受け入れていくべきなのだろう。

 かくして、こうした文脈の土壌のうえでボカコレは開催される。音楽ジャーナリストの柴邦典はこの新しいイベントを「新世代の才能の登竜門」といった[3]。それは確かに正しいかもしれないし、実際にボカコレの開催によって多くのユーザーが新しい楽曲を公開し、そして注目を浴びるようになったボカロPもいるだろう。しかしながら、いわゆる「転生」がルーキーとして参加する行為が発生し、ランキングが掲げる「ルーキー」という言葉の本来的な意味が分からなくなってまっている状況が形成されていること、一切無視することは決してできないのではないだろうか。「転生」がルーキーとして参加する理由はいくつかあるだろうが、そこに「再生回数」は確実にあるだろう。ドワンゴのCOOである栗田穣崇をはじめ、ボカコレはよく「祭り」と称されることが多いが、それは本来、神にささげるための儀式であり、いたって形式的な手続きによってなされるべきものである。しかし、かつて外部の権威や倫理感に対抗する場所として生成された2ちゃんねる→ニコニコ動画が今、再生回数の呪縛とともに内部抗争を繰り広げ続けるのなら、そこに祭りは成立するのだろうか。そうして考えると、やはり私はボカコレに対してどのような距離を保っていけばいいのかを、今一度慎重に考える必要がないだろうか。

 すべての動画投稿者は他者に見てもらうために投稿している事実は、もはや否定されるものではないだろう。しかし、この状況は本当に正しいのだろうかとも、一方で思う。どちらか一方が根本的に正しいと言い切ることができない現状はある意味で、ニコニコ動画をちゅうしんとしたボーカロイド文化が新しいものへと変身を遂げるための、胎動期なのかもしれない。

隠れた地層を巡って

 佐々木祐一は著書『ソーシャルメディア四半世紀』の中で、ニコニコ動画がかつてはほどユーザー主体でコンテンツを作成することが無くなり、代わりに運営が企画を作成する傾向が出現してきたことを指摘したが[4]、ニコニコ公式がまさに主体となって形成されているボカコレのあり方はまさしくそれだ。かつては資本主義的な暴力からの影響も受けず、ただ自由に悪ふざけをする場として形成されていた国内のネット文化。その影響をうけて登場しているはずの2ちゃんねる→ニコニコ動画は今、ユーザーではなくニコニコ動画の公式によって作成されたイベントによって環境が形成されている。そこには避けることのできないアルゴリズムによって制御されたシステムがあり、それは「再生回数」という心臓によって駆動する。過剰なまでのアルゴリズム信仰は一方で、ニコニコ動画のルーツであったはずの「祭り」における悪ノリを不可能にするのではないだろうか。私はそうした状況を否定することも、肯定することもできない。自由に音楽を作るのも、ネタに走るのもどちらも正しい。しかし、これほどインターネットが高度になった今に、本当の意味で自由はあるのだろうか。

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深韻――水の系譜(白)三十四
2016、児玉靖枝作、カンヴァスにオイル、72.7*91

 そんな私に、いったい何ができるだろう。私が提供できることといえば、たった20年とわずかなネット文化の「地層」に目を向け、過去から今の状況を振り返ることだけだ。もっとも、私自身も決して優秀な人間ではなければ、90年代生まれであるために2000年代を同時代的に体験してきたわけではない。しかしながら、私にはそうした地層こそ、重要なものであると思える。 

 ところで、私は先日、近所の美術展でとある絵画を見かけた。京都で開催された展覧会「それはまなざしか」で展示された、児玉靖枝による《深韻——水の系譜(白)三十四》(2016)という作品だ。本作品は一見、ただの白い絵画のように見えるのだが、作品をよく見ると白色で塗られたカンヴァスの下に、桜色が塗られていることを確認できる。白に隠れて見えなくなってしまった桜色の地層は、絵画がどのようにして形成されたかを示し、私たちに絵画に対する新しい「まなざし」を提供するだろう。地層は私たちが何者であるか、そしてどうして私たちが存在するかを説明する。こうした「地層」に目を向けることは、これから先に変化し、やがて来る2020年代のボーカロイド文化、ひいてはネット文化の想像性に対し、ある程度の見取り図を提供してくれないだろうか。ニコニコ動画の「地層」とは、いったい何だろう。

おわりにかえて——10月21日の夜にて

 2021年10月21日、思い出したようにこの文章を見返し、すでに過去になった今秋のボカコレを思い出しながら、私は少しだけ文章を追記する。今回のボカコレはいわゆる「ネタ曲」に多く注目が集まり、それらが結果的にランキング上位を占めるほどになったらしい。こうした文章を書いた自分にとって、今回のボカコレがネタ曲に人気が集まったという事実はある意味、ニコニコ動画が持っていた「悪ノリ」的な性質を再度取り戻したような、そういった空気感があったのだろうかと私に思わせた。それは歓迎されるべき面白さかもしれない。しかしながら、もしそうしたネタさえも再生回数というシステムによって駆動されているのならば、やはりそれは当時と明らかに異なっているだろう。2010年代という断絶から現在に至るネット文化は、かつての勢いを取り戻すことは最早できないまま、新しい可能性を模索し続ける。

 ニコニコ動画の明日はどっちだろう。ネタ曲に見られるようなニコニコ動画に対する自虐的音楽は、再生回数に駆動される今日的環境で注目されるのはある意味で当然のことだ。しかし、その背景にネタで済まされないような、大きな問題はないだろうか。ネタ曲はまるで、自己存在を示すために行われるリストカットのそれと時に同じであり、少なからずリスクを伴う子のだろう。度重なる自傷によってボロボロになる手首を、私たちは維持しなければならない。あるいは、すでに手首が切り落とされ、血液がただ大量に流れゆく状態が今なのであれば、私たちは切り落とされた手首から流れる血液から、その先の光景を描いてくべきだろう。

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[1]アレキサンダー・ギャロウェイ『プロトコル――脱中心化以後のコントロールはいかにして作動するか』北野圭介訳、2017年、人文書院.
[2]イーライ・パリサー『フィルターバブル――インターネットが隠していること』井口耕三訳、2016年、早川書房.
[3]「なぜニコニコで10代のボカロ動画投稿者が急増しているのか? 米津玄師からYOASOBI、Adoへと続く「ボカロ」と「J-POP」が直結した今とこれから」ニコニコニュースORIGINAL、2021年10月16日、https://originalnews.nico/336844(2021年10月21日最終閲覧)
[4]佐々木祐一『ソーシャルメディア四半世紀』2018年、日本経済新聞出版.
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