自意識過剰

その日は、いつもより1本早い電車に乗れた。

朝の通勤は、混雑と逆方向なので、幸いなことに満員電車とは無縁である。

大抵は座れる。立っている人は数人。いつもその程度の混み具合である。

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ただ、その日は、座ることはできなかった。仕方がないので、ドアにもたれかかって文庫本を開く。

毎日、かなりの時間を往復の通勤に費やしている。

しかし、案外、強制的に確保されるこの時間は、悪くない。

基本的に本を読むが、座れれば寝ることもできる。スマホでyoutubeをみることだって、銀行振込やアマゾンの買い物だってできる。

学校の時間割のように規則正しいこの時間は、何かを習慣化するには向いているかもしれない。

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文庫本に集中してきたところで、いつもの駅に着いた。

反対側のドアが開く。

僕は、降りようとする人たちに先をゆずり、ゆっくりと最後に降りることにした。

そう思った瞬間、急に何者かに引っ張られ、僕は動き出すことができなかった。

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でも、僕は冷静だった。そして、瞬時に状況を把握した。

(もしや、カバンがドアに挟まれた??)

さして混雑している車内ではなかったが、僕はビジネスリュックを前に抱えていた。案の定、よくみると、肩ベルトから垂れ下がっているストラップの部分がドアに挟まれていた。10cmほど車外に飛び出していた。

(ああ、やってしまった・・・)

これは、どうみても、抜けない。逆に、今、下手に動けば、カバンのストラップがドアに引っかかっている醜態が、バレバレだ。

僕は、おもむろに文庫本を開いた。

そして、「この駅で降りる予定は最初からなかったのです」という顔をして、平静を装った。

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勝算があった。

なぜなら、次の駅は終点だからだ。

この駅は、上り線と下り線が「対面式」のホームとなっている。しかし、終点は、いわゆる「島式」のホームだ。つまり、ホームの構造が違う。

したがって、次の終点では、こちら側のドアが開くので、僕は解放される。

そのまま、逆方向の電車に乗り、この駅に戻ってくれば良いだけだ。

幸い、今日は家を少し早く出てきたから、遅刻もしない。

それは、一見すると、完璧なプランのように思えた。

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ほどなくして終着駅が近づいてきた。

惰性で走っていた電車にブレーキがかかり、徐々に速度が落ちていく。

(ああ、よかった。これで解放される・・・。)

僕の安堵の思いは、「この先、ゆれますのでご注意ください。」のアナウンスとともに見事に打ち砕かれた。

電車は、ポイントに差し掛かかると、きしむ音とともに横に揺れ、対面の線路へ渡った。

(マズイ、もしや、終点でもこちら側のドアは開かない?・・・)

電車の揺れがおさまり、終着駅のホームが見えた。間違いない。僕はこの駅でも、身動きがとれないままだ。

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想定外のできごとに僕は焦り、混乱した。

「折り返しのそのままのご乗車はご遠慮ください。」というアナウンスが、さらに僕を焦らせる。

対面のドアを眺めると、ホームには溢れんばかりの人が並んでいた。

まもなく、電車が止まる。

さて、どうするか。

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文庫本に夢中になっているように装って、そのまま乗車し続けるのはどうだろう。

これなら、カバンがドアに挟まっていることは気づかれない。しかし、折り返し乗車をすることになるので気まずい。

では、潔きよく降りようとして、「あっ、しまった。カバンが挟まれて降りれない!」という小芝居を打つことにするべきか。

これなら、折り返し乗車の気まずさを回避することができる。

そのようなことを考えていたら、電車が止まり、反対側のドアが開いた。

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ドアが開くと同時に、大量の乗客が車内に乗り込んできた。

そして皆、すばやい身のこなしで一斉に座席に着いた。

そう、身動きとれない僕のことなんで誰も気にしていなかった。

というか、視界にすら入っていなかった。

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他人は、自分が思っているほど、自分のことなんて気にしていない。

恥ずかしいことなんて微塵もない。

恐れず堂々と行動しよう。

その方がきっと楽しい。


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