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One Fine Day

1970年代、ゆういちの少年期シリーズ

はじめに
母ちゃんが、お前は東京の会社へ就職するんだからスーツを新調しなきゃねって。そんな、ある一日を記憶の糸が切れないように思い起こしてみた。
ブルースリー、スワシンジ、わっかるかな?
わっかんねだろうなぁ。

はじまり、はじまり

僕は洋食屋さんで「ラーメン」と母ちゃんにつぶやいた。
母ちゃんは、苦笑しながら「おまえは、ラーメンしか知らないのか?」と言った。

今日は特別な日。
今年も約束どおり、ほんとうに春がやって来るのか桜の季節が待ち遠しいこの頃。
東京の会社へ就職するためスーツ選びと採寸をする日のことだった。
僕の住む小さな町には新調のスーツを買い求められる店はないので、隣のそのまた隣町まで母ちゃんに連れられてきたのだ。母ちゃんがここに連れて来なければ、僕は学ランのまま上京したかもしれない。ここへ連れて来られて初めて、スーツで上京するものだと知ったことは、間違っても誰にも言わないように秘密にすることにした。

店主の勧めで、斜めの真紅ストライプのネクタイでアイビー仕立て、アイビーに合わせたシャツ、靴下に革靴まで揃えてくれた。こんな田舎町に、こんな紳士服店、こんな目利きのいい店主がいたということが意外で、それもトントン拍子でコーディネートしてくれた。

店主はドリフターズ見習いのスワシンジに似ていた。首に廻してあるメジャーを突然、ヌンチャクのように振り回し、ブルースリーの真似をして奇声を発することを想像したら吹き出しそうになったが、口を結んだまま、ほっぺたに力を入れて笑いのピークを越えることができた。

この紳士服店だけで、鬼ヶ島へ行くためのイヌ、サル、キジ、が揃ったようなものだ。あとは、旅立ちの日にきび団子を持たせてもらえば完璧だ。
すでにイヌ、サル、キジが揃ったのできび団子は自分で食べるってことか。
僕は桃太郎か、ナハハハと心の中で笑った。
スワさんはイヌ、サル、キジを来週取りに来てくださいと言って軽く会釈をして見送ってくれた。
何故、母ちゃんはこんなお洒落な店を知っていたのだろうと不思議に思ったが、裁縫がプロの腕前なので何かの縁で情報を得たのだろうと勝手に解釈した。

「ラーメン」はスワさんの紳士服店から、二件隣の西洋の雰囲気のする洋食屋さんでの会話だったのだ。
英国風アンティーク家具や雑貨でデザインされた店内は大人の酒場ではないかと驚いた。
店内はシュレルズのWill You Love Me Tomorrowが静かに流れていた。

「うん、ラーメンでいい」
母ちゃんは困ったように、「ラーメンは無いよ」と言った。
家族で外食したことなど記憶にない。
大衆食堂やラーメン屋さんでさえ、皆で食べた記憶がなく、外食という経験が全く無かった。
そんな僕を母ちゃんは、イヌ、サル、キジを注文した後に洋食屋に連れてきた。
東京で一人暮らしをする息子のために外食の経験をさせておかなければならないから、僕と一緒に洋食屋に入ったのだろうと思った。
お客さんが少ない店内で、油でテカテカしたメニューを見た。
しかし、「ラーメン」しか候補が浮かんでこなかった。
安心して注文できるのはラーメンしかなかった。
洋食の定番、ハンバーグは当然知っているけれど、ハンバーグという肉の塊以外にどんな物が出てくるか想像がつかなかった。それにフォークの表裏をひっくり返して、猫の額に米粒を乗せる技を考えるだけでもいやになった。
ラーメンだったら間違いない、そういう発想だったかもしれない。

マスターは、状況を察知してくれたようで、うちで出前が取れると言って、中華食堂からラーメンをふたつ取ってくれた。近くの中華食堂から、割烹着姿のおばちゃんがあっという間に持ってきた。
ラーメンは既にコショウがプランクトンのように浮いていたので、万人受けするコショウを使って、うまく擬装しているのだなと思った。

母ちゃんは苦笑いしながら、恥ずかしそうにラーメンをすすり始めた。
僕は、スーツで上京する自分の姿を頭の中に映写しながら母ちゃんといっしょにラーメンをすすった。プランクトンを吸い込んでむせないように……
たぶん母ちゃんの頭の中にも、スーツ姿の僕を見送る映像が映写されていたのだろう。いつもと会話が少なかったのでそう思った。
東京でラーメンばかり食べてひもじい思いをする我が息子も想像していたのかもしれない。

店内はウキウキしそうなシフォンズのOne Fine Dayに替わっていたが、今の僕の気持ちには重ならなかった。
西洋の雰囲気のする洋食屋ではラーメンを前にしても、結局食欲のスイッチが入らなかった。
胃が小さくなったようですぐに腹が一杯になった。
ふたりとも、ラーメンでむせることなく無事食事を終え、洋食屋をあとにした。スワさんのことを思い出さなかったのがよかったかもしれない。

それから母ちゃんと一時間に一本しか走らない、がらんとしたボロバスに乗った。
西洋の雰囲気の酔いを引きずって、バス酔いだけは避けたいと、肝に念じ海を見ながら一時間ほどで自宅に戻った。

飼っているコザクラインコが「ピピッ」と尖った声で鳴いて、僕に家に帰ってきたのだと教えてくれた。畳の上に大の字になり、届きもしない蛍光灯の紐に手を伸ばしてみた。
今日は紳士服店でスワシンジに出会い、西洋で中華を味わい、そして臭いボロバスに乗って小旅行から帰ってきたので、井戸の中に入ったように落ち着いた。
すぐに母ちゃんが熱い緑茶を淹れてくれたので、口を尖らせ一口すすった。
……
すると、あのイヌ、サル、キジを手に入れたら大人になれるのだと頭をよぎった。
その瞬間、血が沸騰し、ブルースリーの真似をして奇声をあげた。
「アチャ、アチャ、アチャ、アチャー、アォ―――」
奥の部屋から弟が飛び出てきて、眉をひそめ、気でも狂ったの?というような仕草をして笑っている。

僕は、あのOne Fine Dayが聞きたくなり、
小さなナショナルのラジカセに“外国”と書かれたカセットテープをカシャリと入れ、覗き込んだ窓から見えるテープの量を見ながら早送りと巻き戻しを繰り返し、再生ボタンを押した。
ミッシェル・ポルナレフの「愛の休日」の次に聴こえてきたカーペンターズのOne Fine Dayのボリュームを上げた。

おわり


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