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銀杏が教えてくれたこと

1970年代、ゆういちの少年期シリーズ

お母ちゃんが、明日も学校だから早く寝なさいと言った瞬間、最近地震がなかった僕の中に激震が走り、歌舞伎役者のように寄り目になって強面になってしまった。

今日、小学校の先生が明日の理科の授業に、落ち葉を持ってくるように僕らに告げたのをすっかり忘れていたのだ。
これから布団に飛び込んで弟をいじってから寝ようと思っていたのに、何故ここで記憶を呼び出してしまったのだろう?
いっそのこと、明日学校に着いてから思い出した方が楽だったかもしれない。いやそんなこと考えている場合じゃない、怖い先生に怒られることを思うと、こうしてはいられない。

「あっ、あの、お母ちゃん、学校に落ち葉持っていかなあかんねん」
お母ちゃんは、じゃあ、落ち葉拾いに行こうと言って、
パジャマ姿の僕に着替えなさいと言いつけた。
僕は朝の着替えより早く、いや、消防士よりも早く、すぐにでも出動できるように準備を整え、胸にウルトラマン科学特捜隊のバッジを付けた。

もうこの時間であれば外はひんやりしている。
お母ちゃんは柿色のカーディガンを羽織って、心配そうな弟に手を振ってから僕といっしょにボロアパートから飛び出した。
東の方向には山があるので、自然に東の方向にふたりで向かった。
大きな市立病院の裏に大きな銀杏の木があることを、僕も知っているけど、お母ちゃんも知っていたようだ。
お母ちゃんは幼いころ、終戦の貧しい時代を生き抜いてきているので、どこかへ行く度に、銀杏の実や、ツクシ、ゼンマイ、ドクダミ、フキ、ヨモギなどを気にかけるのだ。だから銀杏の実が落ちる場所を記した地図が頭の中に入っているのだと思った。
そうか、銀杏の実だったのか。
お母ちゃんは怒りもせずに僕といっしょに来てくれた理由がわかった。
隣の県までお父ちゃんと山芋堀に行くぐらい、タダで手に入る食糧に興味があるのだ。
へッへへ、お見通しやでぇ。

市立病院の裏までは歩いて五分ほどだ。
最近、シキシマパンのお店が開店した目と鼻の先、昼間の様子とは打って変わり、パン屋さんは明日のために英気を養っているように眠っている。そうそう、このパン屋さんは、ぼくら庶民が見たこともない“電子レンジ”があると近所で話題になったのだった。
電子レンジで菓子パンを温めてもらったことがあり、温める時間がほんの一瞬であったことに衝撃を受けたことを思い出した。
パンを一瞬で温めた衝撃だけではなかった。
ほんのり中まで温かい菓子パンが、うっとりして幸せを感じるほど美味しいことにも衝撃を受けたのだった。
落ち葉拾いに来たのに、また違うことを考えてしまった。
僕はいつもこうだから、先生に言われたことを半分だけ聞いて半分聞くふりをして、落ち葉のことも忘れてしまったのだろう。

市立病院の裏には、頭に描いていたとおりの銀杏の木が僕らを見下ろし、
落ち葉が一面に広がっていた。
街灯だけなので、黄色いはずの落ち葉には色がなく、肌寒いのに加えて病院の暗い建物の影が迫ってくるようで僕は震えた。

先日、友達と怖いもの見たさで、この病院の正門で救急車を待っていたことを思い出した。
「ウー・ウー・ウー」という音で僕らには緊張が走り、病院の正門から救急車が通過していくのを見守り、患者さんを運び出す現場を遠くから見ていたのだ。
多くの血に染まった白いシーツのような何かが目に焼き付いた。
切り裂かれるような衝撃が走り一目散に病院から逃げ去った光景がよみがえった。
そんな遊びをしていたことは、間違ってもお母ちゃんには口にしない。
また、ブルっと寒気がはしり、急いできれいな銀杏の葉っぱだけを数枚拾った。
満足したので後ろを振り返ったら、お母ちゃんが拾った棒で、臭い銀杏を突っついていたので、お母ちゃんを少しだけ楽しませてあげたのだと思って安心した。

次の日、理科の授業で机の上に、隣の女子にトランプのフルハウスを見せびらかすように銀杏の葉っぱを並べた。そのフルハウスはボロアパートの隣の隣に住んでいるお姉ちゃんと遊んだ時に教えてもらったのだ。いっしょに遊んでいると、ゲーム中に歌舞伎のセリフを口走り、皆を笑わすのが趣味のような明るい物知りなお姉ちゃんだ。

この隣の女子といったら僕より沢山の種類の落ち葉を並べ、僕に興味を示す風もなく真っすぐ正面を向いて、つんつんつん、している。
僕は、その女子に聞こえないように少しだけ舌打ちして、もう一度自分のフルハウスの手を見ていたら、銀杏の葉っぱが僕に記憶を思い出させるスイッチを入れた。

悪ふざけで、病院の前から人の不幸を見ている醜い自分の姿だった。

銀杏の葉っぱは、うちの家族と同じ数だった。
それぞれの銀杏の葉っぱには、お父ちゃん、お母ちゃん、弟、の顔が浮かび、悲しい顔をしていた。すると、鼻をつまんでプールに潜ったように、僕の周りの音が何もかも聞こえなくなった。僕はもう悪い遊びはしませんと心に誓うと、お父ちゃん、お母ちゃん、弟、僕、家族がみんな健康であることに気がついた。

嬉しくなって、さらに音の無い自分の世界に入っていった。

心地よい乾いたチョークの音が止まった瞬間、突然先生が僕を指名した。
自分の世界に入っていた僕は、ここは学校であることまで、わからない状態であったので、脳みそがパニックになってしまった。
女の先生から「なにボケーとしてんのん」と言われたのと同時に、どっと同級生の笑いにつつまれ、隣の女子が輪をかけるように奇声を発して笑った。

そしたら、僕はまた歌舞伎役者のように寄り目になり、
口をへの字に半空きにし、
「近頃面目次第もございません」と心の中で発した。

おわり。

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