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ボロアパートの不思議な話

昭和四十年代、私が小学生だった頃住んでいたボロアパートの不思議な話です。
ボロアパートにはこんな話が似合うのかもしれません・・・

当時、私はボロアパートで父母弟と家族四人で暮らしていました。
アパートは二階建てで東西に長く西側にはメインの内階段。
東側には子どもたちが「ヒジョー階段」と呼んでいた赤いペンキで塗られた雨ざらしの鉄骨階段がありました。近所には年が近い子どもがたくさんいてヒジョー階段は人気がある遊び場のひとつでした。

東側は三十分ほど歩くと山、子どもたちは東山と呼んでいました。
東山のわかりやすい特徴といえば謎の”727”という大きな看板があったということです。
誰もそのことについて触れることはなかったので子どもたちの間で727が話題になったことはありませんでした。
何の宣伝なのか、何を伝えようとしているのか、気がついた時から存在したいたので、山には木があるように、それは山の一部だったのです。
東山は自然に満ち溢れ溜池もあり、ザリガニや鮒釣りに虫捕りに、休みの日になると必然的に足を運んだものでした。

住んでいたボロアパートの部屋は二階で四畳半と三畳の二部屋と猫の額ほどの台所。
家財道具は冷蔵庫と白黒テレビぐらいが大物で、その他のものは無かったのか記憶にありません。その白黒テレビではアポロの月面着陸を見た記憶だけはあります。
よくもそんな所に四人で暮らしていたものだと感心し、今思えば毎日が避難所生活並みだったのだと思えます。
隣町に三人兄弟の従妹が住んでいるので、母がたまに遊びに呼んでやって一晩二晩泊まっていくことも。夜は布団の上でじゃれあい、それはそれは楽しいものでした。
そんな狭い所に四人で生活していれば三人増えても同じ、就寝時は全員むし鮨のように蒸れていました。

ボロアパートは全部で十六世帯ぐらいだったでしょうか、昼間でも廊下や共同トイレは薄暗く洞窟のような環境です。サルやワニを飼ういなかっぺ大将に登場する西一(ニシハジメ)のような住人がいて、そこから逃げ出した孫の手ぐらいの長さのチビワニがうちの猫の額ほどの台所へやってきたこともありました。
負けずと、うちも文鳥やシマリスを飼ったりしたこともありましたが、サルまで飼っている西一には勝てません。
一番の仲良しの同級生家族が住む部屋は二階の端っこで、お父さんが金魚好きとあって部屋の中には大きな水槽が無数に置いてあり、エアーポンプの音と水槽独特の臭いが印象的でした。ボロアパートから飼育しているペットを全部引っ張り出せば小さなペットショップがオープンできたのではないかと思うほどでした。
店長は、たぶん西一が担当していたでしょう。

思い起こせばきりがありません。

どこの部屋だったか記憶にはありませんが、「となりのお兄ちゃん」と呼んでいた子ども好きな若い一人暮らしのおにいさんが住んでいました。
薄暗いボロアパートだったので顔ははっきりとは覚えていませんが、俳優の佐藤浩市さんのようなイメージを今でも持っています。
子どもから見ると大人とお兄ちゃんは違うのですね、子どもたちの気持ちに近いからでしょう、皆となりのお兄ちゃんが大好きでした。

ボロアパートは洗濯物が干せる小さな屋上があり、そこから簡単に屋根に上がれるのです。
暑くて寝苦しい夏の夜のこと、となりのお兄ちゃんは暑さから逃れるためか屋根で寝ていたらしいのですが、ほんとうに寝てしまって転落してしまったのです。
子どもの視線では二階建てアパートの屋根から転落すれば、間違いなく命は絶たれると、瞬時に理解していました。

後から聞いた話では骨折ですんだと聞かされていましたが、ほんとうのことはわかっていません。となりのお兄ちゃんは次の日から姿を消しました。
松葉杖で寂しくボロアパートあとにしたのか、あるいは死んでしまったのか。
鳥小屋の扉を開けたら白い鳩がすぐに飛んで行ってしまったように。
この時初めて突然の別れを経験し、犬になって遠吠えしたいほど寂しい思いをしました。

そのボロアパートを中心に起こる色々な出来事が子どもだった私にはとても刺激的でした。そのボロアパートで暮らす様々な家族の喜怒哀楽を共有したおかげで。あのボロアパート生活がなかったら今の自分がないのではないかと思うほどです。

そんなボロアパートで、隣のお兄ちゃんがいなくなってから不思議なことがあったのです。
あのヒジョー階段と呼んでいた鉄骨階段での出来事です。

まだ明るい夕方、いつものように母に遊びに行ってくることを告げて弾けるように家を飛び出し、薄暗い洞窟のような廊下を歩きヒジョー階段の踊り場に出たのです。

私を待っていたかのように、
ス―――――ッと来たのです。

背筋が凍り付きました。
その夕暮れ時に。

青白い火の玉が、「ス―――――ッ」っと長い尾を引きながら飛んでいるのです。

あのチビワニの長さと同じ。
火の玉の尾はまるでガスバーナーのような綺麗な水色。
音は全くない。
仮に周りで物音をたてたとしても、それも全て吸い取ってしまう振る舞いをしているようでした。
火の玉は、ちょうどボロアパートの影から出てきたところで、目の高さと同じで七から八メーター先の至近距離を右から左へ、東山の方向へ飛んでいくのです。
あの、727へ向かって。
水平で真っすぐな、油を塗ったレールの上を滑るように右から左へ。
ゆっくり、ゆっくり、人が歩くぐらいの速さで宇宙空間を移動するようにとも表現できます。

ヘビに睨まれたカエルのようになって息が詰まりそうになり、これから何をどうしていいかわからなくなりました。
近くに誰かいたら「あっ、あっ、」と言って説明はできないけど指差して教えてあげたでしょう。

そうだ、間に合わないかもしれないけど、何としても母に見せるのだ!

あわてて引き返して猫の額で夕餉の支度をする母を呼びに行きました。
しかし、困ったことに説明する言葉が頭にうまく出てこないのです。
声に出かかったが、舌の上で言葉が止まってしまいます。
何か異常な事態が起きていると、母は悟ったのでしょうか、私の後を小走りでついてきてくれました。
何とか母を連れてヒジョー階段まで戻った時には夕暮れ時の寂しい景色しかそこにはありませんでした。

でも母は信じてくれました。

あの時母を呼びに行ったら、火の玉はもういなくなると分かってはいたのですが、どうしても母に見せたくて。
そんな出来事がある時って周りに誰もいないものです。
そこには、ぽつんと、母と私だけ。
鉛のように重苦しい空気が周りを取り囲み、夕暮れの景色も早く闇へ吸い込まれそうでした。

その時、やさしい母に聞いてみました。

「となりのお兄ちゃんじゃないよね?」

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