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【読書記録】統合失調症の母と生きて

本書は統合失調症の母親を持つ3姉妹の次女が、母親との生活をその老年期まで記録したものである。美しく聡明であった母が、自分たちからは見えない声と対話するようになり、夫を悪魔とみなして攻撃するようになる。家の中は汚く、母の機嫌を損ねないように娘たちは怯えながら、いつも空想の世界で自由になることを望みながら暮らしている。

さて、次女の抱える葛藤として、本書の中にも記載されているが、精神疾患はその病気と本人を切り離すことが難しい。がんや他の病気であれば、症状が人格に影響を与えていたとしても、病気がその症状を引き起こしているのであり、本人の性格ではないと周りの人は割り切ることができる。精神疾患においては、その治療過程が長期間に及ぶこともさることながら、人格と病気をはっきりと分けて考えることが難しい。それゆえ、精神疾患、認知症など、人格が病気によって変化する病では、家族や周りの人は、その人がもう自分の知っているその人ではないといった、あいまいな喪失を経験する。亡くなったわけではなく、たしかにその人は目の前に存在するのであるが、自分の知っている、または自分の愛した、その人ではなくなってしまっている。

統合失調症は脳の器質的問題で発症するのか、または病気の発症により脳が変形するのかわかっていないが、認知症患者の脳は萎縮していることや、脳血流が少ないことを知っていれば、どちらにせよ人間の脳と人格は深く関わりを持っていることがわかるだろう。

そのような人格に影響を及ぼす病において、医療者の視点から見れば、医療者が患者と関わるのは病気が発症したあとであるから、どうしても今目の前にいる患者の様子を本人の人格として捉えてしまうだろう。本人や家族からの情報が少ない場合、今までの性格や、患者が生きてきた人生を想像することは難しい。しかし医療者は、患者が今までの人生をどのように生きてきていたのか、どのように生活をしていたのかを知り、目の前の患者は長い人生という物語を持っている1人の尊厳ある人間であるということを忘れてはならない。その認識があってこそ、患者にとっての幸福を具体的にイメージすることができ、目指すべきゴールを一緒に考え、そこを目指して医療者として支援することが可能であるからだ。すべての病を抱える患者に対して、私達が日常で関わる人すべてに対する態度として持つべきものであろう。

本書の翻訳を務める精神科医の森川すいめい氏が解説の項で記載しているが、患者の一生を切り取った一部分にしか関わらない私達にとって、短期間で患者の生活や思いを知ることは難しい。想像に頼らざるを得ない場面が多々あるが、その想像はあらかた間違っているだろう。それでも、その想像の一助となるものとして、1人の患者の生活を追った物語を膨大な数頭に入れておくことはできる。体験記を読んだり、1人1人の患者と真摯に向き合い、その人の物語を丁寧に聞くことによって、私達の想像力はより患者の現実に近いものとなる。量をこなせば良いのではなく、どれだけその人の物語に耳を傾け、思いを聞くことができたかということが重要である。

患者の話を聞くことが、どれほどまでに私達にとって学びになるのかは計り知れない。患者はその病を持っているという点において、私達医療者よりもはるかに病に関する知識を持っている。1人の生活や思いを知ることができるということは大変貴重な機会であり、患者の言葉には聞き流して良い言葉など一つもない。

病気に関する知識で武装し、ただ診断をつけて薬を処方するよりも、患者から話を聞かせてもらうほうがはるかに患者にとっても私達にとっても満足感が高いのではないだろうか。医療者として、患者の物語の想像を助けるにあたり、その病識の理解は必要なものであり、患者のゴールを一緒に目指すにあたって医療の知識は大切である。しかしながら、患者の物語を聞くにあたっては、患者を単なる「病を持った人」と捉えるのではなく「1人の人間」として捉える態度が求められる。看護学校ではこの通り習うのだが、実習で行った急性期の現場では私にとって「患者と向き合い話を聞くこと」が忘れ去られているように感じられた。

私は現在看護学生であるが、忙しい現場においても、上記の視点を忘れず、常に患者にとって話を聞くものとして存在していたい。その態度を持つにあたり、本書は統合失調症を持つ1人患者の物語を教えてくれるものとして非常に考えさせられ、また参考になるものであった。



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