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【ナラティブの世界】表現することで救われる

ナラティブとは何か? 

「ナラティブ(narrative)」とは「語り」「物語」の両方の意味を持つ言葉だ。語り手の一方的な語りと、聴き手との間で新しい物語がつくられていくという意味も合わせもつ。

 そもそも人間には自分自身を表現したい、自分の存在を伝えたいという自己表現欲求がある。その中でも表現方法として一番簡単なものがコミュニケーションだ。言葉を発するということは、私たち人間に許された1番簡単な自己表現方法である。

 言葉によるコミュニケーションは難しい。自分の考えを言葉にするとき、自分の考えていることが100%だとすると、そのうちの数%しか言葉という媒体を用いて伝えることができない。また、自分の考えていることを余すところなくうまく言葉に乗せることができたとしても、相手が今までその言葉に"どのような文脈で触れてきたか"という経験が、言葉の印象を左右してしまうのである。

 「語り」がなくとも、「言葉を介さずに何かを表象する行為」としてナラティブは存在しうる。例えば、私が以前読んだ本にこんな話がある。精神病院で急性症状が酷かった患者が隔離室に移動になり、その際に鉛筆を一本要求し1日で部屋一面に大きな天使の絵を書いたという話だ。自分を内から外に解き放ちたい、なにかを伝えたいという欲求をどうにかして外に出そうと、絵を書くという行為で投影させたのであろう。また、少年期の非行も、伝えたい思いの表現方法の一つとしてナラティブと捉えることができる

 私は、何かしらの形で、自分の思いを伝えることに価値があると信じている。もちろんその手段は社会的に許されるものでなければならないが、人間は伝える、表現することで救われる部分があると考えている。蓋をして自分の内側に閉じ込めておいたほうが良い経験や思いはない。自分の中で未解決の感情や出来事に蓋をしてやり過ごそうとしても、いつまでもきっと心の底では癒されず傷が残り続ける。

 前置きが長くなってしまったが、今回は私が看護学生であるということもあり、ヘルスケア領域におけるナラティブの持つ意味について考えたい。

「ナラティブ」はケアになりうるのか?

 以上で説明してきたナラティブはケアとして癒やしにつながるのだろうか。これを考えるにあたり、宮坂道夫著「対話と承認のケア」を参考に、実存的ヘルスケア、構築論的ヘルスケアという二つの構造を見ていきたい。

 実在論的ヘルスケアとは、「標準化されたケアの提供」である。ケア者は患者から問診や検査で得た情報を標準化されたケアに照らし合わせ、その病気に対して最善の医療を提供する。エビデンス・ベースド・メディスン(EBM)やガイドラインに沿った治療がこれにあてはまる。

 一方で構築論的ヘルスケアとは、「個別化されたケアの提供」である。
ケア者は患者や家族のナラティブを情報源として患者がどのように病を経験しているのかを把握する。どんな病でも患者によって問題のあり方は異なるのであるから、それに対して個別化されたケアを提供し、治療が有益であるかの評価も患者自身が行う。患者という他者が経験しているものを、他人であるケア者が理解しようとするのである。そのため、患者の人生史にも関心を向け、敬意を払おうとする態度が必要だ。

 患者が抱える健康上の問題は身体的、生活史、人生史と分けられる。その中で実在論的ヘルスケアは主に身体的側面を診ており、構築論的ヘルスケアは個別性を考えるために生活史や人生史を捉えている。一般的に、心のケアにおいては構築論的ヘルスケアも行われているものの、現在のヘルスケアの現場においてはほとんどが実在論的ヘルスケアのもとに行われている。

 ナラティブを活用した構築論的ヘルスケアの実践例としては、急性期の現場における生活機能を視野に入れた個別的な治療目標の設定や、死を目の前にした局面での対話があげられる。また慢性期の現場においては、疫学的なナラティブ(この病気の人はこのような悩みを持つことが多い等)ではなく、患者の個別的な物語を注意深く解釈することによって実践される。

 このように、実在論的ヘルスケアの背景に隠れているものの、ナラティブはヘルスケアの範囲においてもこっそりと取り入れられているのである。

 ナラティブがヘルスケアの構造に取り入れられる余地があるということはわかったが、これがケアになるためには、ケア者の関わり方に注目しなければならない。ケア者は、「正解」は対話によってもたらされるものであり、それを事前に知っているものは誰もいないという態度を持つことが求められる。行われる対話の実践を信頼し、患者の人生史を共有しようとする場に取り組むという協同の姿勢を持つことも、ケア者の関わり方として求められる。

感想

 私自身としては、患者の話を聞くことでその生活史や人生史を知り、根本的に患者を癒やすことができるような看護職になりたいと願う。医療者が検査や問診で欲しい情報だけをかき集め、それをもとに診断と治療を下すような一方的な医療であってはならない。患者の人生史の中で病いが発生するのであり、私達は医療と看護の知識を持ったプロフェッショナルとして、患者や家族は病いの体験のプロフェッショナルとして対話の場に立ち、ともに答えを模索していくような関わり合いが必要であると考える。患者は検査や数値に見える病に苦しんでいるのではなく、その人生と病の関わり合いの中で苦しみを抱えているのであるから、病を人生史から孤立させたものとして捉えても癒やしにつながると考えられるはずがない。患者の個々の人生の苦悩の語りの場に参加し、丁寧に耳を傾けることで、ナラティブによる癒やしがもたらされるのではないかと考える。

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