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時間性を克服するための他者への作用: 言葉と仕事と子育てについて

私は人と話すことが好きである。人の話を聞くことも好きだが、人の話を聞いたあとは、必ず自分の考えを喋りたくなる。
言葉というものは、それを誰かが受け取った瞬間に、良かれ悪しかれ、それを受け取った他人に何らかの作用を与える。だが、自分が発したその言葉は依然として、自分だけのものである。それは言うなれば、私が生み出した言葉が他者に作用するという働きである。

だが、自分が生産した情報を他者が受け取って、受け取った他者が何らかの作用を受けるというプロセスは何も、会話に限って生ずるものではない。文章を書くことも、音楽を作ることも、絵を描くことも、言葉を発することと同じく、何らかの情報を生産することであり、その情報が他者に受け渡され、それが他者に作用すれば、それは会話と同じく、自らが生産した情報でもって他者に作用する営為である。

「成し遂げ」に関する発見: 組織との関係を前提とした他者への作用

私が就職活動をしたのは5年ほど前だが、兎にも角にも、「この組織に入って成し遂げたいことは何か」と色々な場所で聞かれた。大人たちは、「何かを成し遂げたいと思っていない人間」などこの世に存在しないとでも思っているのか、と感じたものである。
かく言う私もご多分に漏れず、「成し遂げたいこと」を半分本気で、半分でっち上げて、就職活動という当座の問題を切り抜けた。

だが最近気づいたことがある。組織から「成し遂げたいこと」を語ることを求められるとき、これを問われた人間は、「何らかの社会的な関係性を前提として、自らの意思を端緒として、一定の規模を伴って他者に作用する営為を希望すること」を求められていたのではないだろうか。こうした営為は、私が上で述べた「自身が生産した情報を他者に受け渡し、その他者に作用する営為」を、組織の一員として行うこととして置き換えただけである。
そうだとすると、私が物を語り、文章を書き、音楽を作ることを通じてやりたいことは、就職活動のあらゆる場面で語ることを求められた、「成し遂げたいこと」の、言わば相似である。そして、就職活動が、採用する側という組織と、採用される側という個人の関係性において成立する事象である以上、組織が当該組織に加入することを希望する個人に対して語ることを求める事柄が、組織と個人の関係性を前提とすることは当然なのである。

時間という制約の必要性

私は10代の後半、同年代が高校生活に勤しんでいる頃、学校に行かずに好きなことをやっていた。高校や大学、会社といった組織に属していれば、必ず「時間」の制約を受ける。例えば学校であれば期末テストや単位の取得など、学期末までの時間軸で処理しなければいけないことがあり、同様に学年末までに処理しなければいけないことがあり、卒業までにやるべきことがあり、会社であれば週明けの会議までに作るべき資料があり・・・、など。
こうした制約が一切存在しない生活をしていると、当人は、否応無しに、「自分は何をすべきか」から考えなければいけなくなる。なぜかというと、完全な自由というものは、「時間」を経た先の状態、すなわち「未来」を想像することのできる人間という生き物にとって、耐え難い不安を与えるものだからだ。
なぜかというと、不慮の事故に遭ったり、不治の病を抱えたりでもしない限り、人生は数十年という時間軸で続くものであり、数十年という時間は、目標を持たずにやり過ごすには途轍もなく長いものだからである。時間の制約を否応無しに個人に対して課してくる組織の一員として暮らすことで、人間はそうした不安から解放される。

組織がもたらしてくれる制約の限界

とは言え、組織はあくまで何らかの目的のもとに構成された人工物であり、したがって、あくまでその組織の目的に対して、それに属する個人が応ずることのできる範疇においてのみ、当該個人に対して時間の制約を与えてくれるに過ぎない。
仮に死ぬまでそうした組織の一員として生きられるなら、組織が自らの人生に与える時間の制約に安穏としながら、数十年の時間をやり過ごすことができるかもしれない。大きな組織で幹部まで勤め上げた人間が、顧問とかいった肩書きを得たり、そうでなくとも非公式な繋がりのもとで定年退職後もその組織の運営に関わりながら生きていくといった事例も稀にあるが、そうした生き方ができる環境にあり、かつ、それを望んでやろうとする人間はごく少数であろう。終身雇用という言葉がもはや死語となり、組織を媒介とした人間関係が希薄化しつつある現代においては尚更である。
そもそも、人間は、他者とは異なる特殊性、すなわち他者との差異をもって他者に認められたいという根源的な欲求を有している。自分という人間の代わりがいるという状況では、安心できないのだ。そして、組織とは、特定の目的のもとに構成される人工物である以上、その存在目的を媒介として個人を求めるだけのものであって、本質的に代替不可能ということはあり得ないし、個人の「やりたいこと」が、組織の目的に完全に一致することもあり得ない(自らの「やりたいこと」を出発点にして、組織の目的そのものを変えてしまうということもあるだろうが、それはもはや、組織との関係性において自らに制約が課されている状況とは言えない)。すなわち、組織との関係性において何かを成し遂げるということは、その根源的な欲求と、基本的な部分で矛盾を来すのである。

要するに、就職活動で私が散々ぱら問われた「成し遂げたいこと」は、私が冒頭述べた「自身が生産した情報を他者に受け渡し、その他者に作用する営為」と相似の形象であるとしても、完全に一致することは絶対にない。
したがって、数十年、下手をすれば百年に亘って続く人生が個人にもたらす耐え難い不安から逃れるためには、組織との関係性を前提としない形で、自分自身がやるべきと思うこと、言い換えれば、自分自身の人生が持つ時間性に制約を課すものを見つけなければならないのである。

制約としての作用に関する仮説: 言葉と子育て

情報を自ら生産し、これを他者に受け渡し、これでもって他者に作用することを、もっと突き詰めて考えると何なのだろうか。
まず、作用するためには、生産することが必要である。私の場合、言葉を紡ぐこと、音楽を作ることが、生産することである。生産したそれらの物を媒介にして、初めて他者に作用することができる。
だが、作用する対象である「他者」は、あくまで他者であり、自らが生産したものではない。私がある情報を生産して他者に作用するとき、その他者は同時に、私以外の無数の主体が生産する情報にも作用されているのである。

そうだとすると、作用する対象となる他者、「人間」そのものを生産する営為、すなわち子孫を残すことは、メタな意味における「作用」であると言えるのではないだろうか。私は言葉を紡いだり、音楽を作ることで他者に作用することを試みているが、確かに、作用する他者そのものを生産してしまえば、当該他者があらゆる第三者から受ける作用とは異なる意味で当該他者に作用することになると言えるように思われる。

ジェンダー論に関わる容易ならざる議論であるということを承知の上で申し上げると、子供を作ることのできない性を持って生まれた人間は、そうではない人間に比べて、このメタ的な意味における作用との縁が薄いと言える。
すなわち、男性は本質的にメタ的な作用から遠ざけられた存在である。だからこそ、現代社会においては一般に男性のほうが、メタ的でない意味における「作用」に強い執着を示す傾向にあるのではないだろうか。
人間社会が農耕を通じて大規模に生産に勤しむようになったことと、男系社会の成立には時間的な近接性があるように思われることも、こうした背景があると言えはしないだろうか。

とは言え、自分自身が他者を生産することができないとしても、女性が他者を生産するために男性性は今のところ不可欠の要素であるし、子育てを通じて他者に作用するという営為には男性にも関与し得るものである。世界の先進国で少子化が共通の社会課題となっていると言っても、大多数の人間がその人生の少ない時間を割いて子育てをし、自らの子供に作用するという傾向それ自体に変化は無い。
言い換えれば、言葉を紡ぐ、音楽を作る、絵を描く、映像作品を作るなど、組織との関係性を前提としない他者への作用のあり方には様々な方法があるが、子育てほど多くの人が経験する、組織との関係性を前提としない他者への作用のあり方は現代社会においては存在しない。
そうだとすると、私が冒頭述べたような、「情報を生産し、その情報をもってして他者に作用する」ということへの欲求を、大多数の人間は、子育てを通じて充足していると言えるのではないか。

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